魚料理の持続可能性と、命をもらって生きること

小学生の頃から魚が好きでした。

きっかけは、祖父に連れていってもらった釣りです。川の上流から川下にむかって、餌も何もつけず針をいくつもつけた糸を流して、勢いよく引っ張ってはまた流すのを繰り返します。泳いでる魚をひっかけて釣る、原始的でシンプルな釣りです。大人は卑怯だからやっちゃいけないと言われましたが(笑)

これが子供心に面白かったんですね。オイカワと言って、わかさぎほどの小さい魚がたくさん釣れた。川岸で火を起こして、祖母が衣つけて揚げてくれました。美味しかったですね。二十数年たった今も忘れません。

その魚をいつまでも美味しく食べるには、料理の観点から持続可能性を探っていかなければいけないと思います。

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魚の活かし方

私は、水産業が盛んなある地域の中央市場から地方の市場まで、よく出入りしていました。その経験を通して思うのは、魚を売りにするお店は今後、リスクが大きいだろうなということ。

その道の方であれば痛い程ご存知かと思いますが、水産資源は冗談抜きで激減しています。理由は様々な要因がありますが主なところでは3つ。

海水温の上昇、乱獲、自然災害。

日本では魚の消費は減っているものの世界レベルで見ると魚の需要は急激に伸びています。人口統計を見てもそれは当然です。日本の人口が減っていく中で世界人口はまだまだ増えていくと言われる。

まして、地球が賄える資源は50億人が限界と言われますがもう70億人を突破しました。こうした地球の資源ひとつとってもグローバルな問題ですし、じゃあどうしようかと皆で話し合って、乗り越えていかないと未来は憂慮すべき問題ばかりになります。

自分だけ良ければいいというのは持続性のある考え方ではない。。。

資源枯渇種41%!?

魚料理を強みとした場合、100年持続できるかどうか?

WWFという、持続可能な未来の為に自然環境保護を目的とした団体がありますが、その調査によると日本近辺の資源枯渇種は全体の41%にものぼるそうです。

WWFジャパン
WWFジャパン WWFは、人類が自然と調和して生きられる未来を目指し、約100カ国で活動している環境保全団体です。WWF ジャパンは、日本国内および日本が関係している国際的な問題に取り組...

豊富な種は?というと19%。さらに驚くのは、流通する水産物の約半分は養殖で賄っているということ。

まさかそこまでとは、、、、

たしかに、市場で昔から商売している人も10年前の1/3しか水揚げがないといっています。場内にあふれんばかり揚がっていたのに、今は寂しい限り。畜産のように安定して供給するには養殖を強くしておかないと、もたないのは良く分かります。

未来を見据えた賢い選択とは?

今後、人の叡智で水産環境を良くする努力がなされ、資源が少しずつ復活していく可能性はあるとしても、ここまでひどくなったものが急激に良くなることはないでしょう。まして、保護主義だナショナリズムだと自国優先の国が増えれば、奪い合いになることも考えられる。

いや、、、正直なところ怒りさえ覚えるのですが、海中でダイナマイトを爆発させて、浮き上がってきた魚をかき集める漁が実際にあります。中国のねこそぎ奪っていく漁も同じようなものです。小さくて商品にならない魚まで獲ってきて、売れないからと捨てたりする。

日本には刺し網漁という、網目の大きさを調節して一定のサイズの魚しかひっかからないスタイルがあります。網目より小さいサイズはすり抜けていくから、未来の種まで奪わないんですね。また来年かかってこいよ、という持続型の漁です。

こういう賢い選択が、自国の利益ばかりを追い求める潮流の中でどれだけなされるのか、非常に不安です。

魚料理の役割

そう考えていくと、水産物の価格はまず安定しませんし、せっかく看板メニューを作っても水揚げがなくなったり、品質にばらつきがあったり、100年続けようと思えばなかなか厳しい側面があります。

リスクが大きすぎる。そうはいっても、魚は食べたい。

海外から日本へ遊びに来られた方がまず食べたいのは、やっぱり「寿司」だという。海外に勤務されている日本の方も、帰国してまっさきに食べたいのは刺身だと言っていました。

私も魚が大好きです。商品価値としては、これから資源が減っていく分ますます高くなるかもしれない。実際、鮭にしても、イカにしても、サバにしても、イワシにしても、相場は年々、あがってますからね。ただ、資源がまったくなくなるという訳ではない。

ということで、構想レストランでは、カルツォーネという武器をもっと強化して、魚はコース料理の中の渾身の一皿として活かしていった方が良いのかなと現時点では考えています。

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仮想現実から現実へ

構想レストランでは、命をいただくことの喜びと感謝を味わってもらえる体験型の仕組みづくりをしようと思っています。

溶岩焼バーベキューもそのひとつなのですが、魚料理に関してはもっとリアルに感じていただきたい。魚は切身にされてスーパーに並んでいるものと、生きて泳ぎ回っているときというのは似ても似つかぬ姿です。産地、生息環境によっても違う。品質でいうと水揚げ直後の処理が重要で、それ如何で天と地ほど差が出ます。魚種によっては、活〆して血抜きしたものを使わないと刺身にはできません

いま考えているのはタブレットの活用です。せっかくITがこれだけ進歩発展しているので、活かさない手はない。理想は丸いタブレット、もしくは正方形のタブレットです。

これを皿にしてしまう。料理提供の前にお客様の前にお持ちして、プロモーションビデオを流します。

メバルのカルパッチョならば、海で元気に生きている姿から、漁師さんに水揚げされ、店まで送られてきて、捌かれ、料理になるまでをリズムよく流す。そして今まさに、そのメバルが調理されて運ばれてくるという、仮想現実から現実へと置き換えられ、はじめて料理が完成する。

これは構想レストランの未来をお客様視点で書いたストーリー『未来予想図Ⅱ』にイメージを書きましたのでよかったらご参照ください。

命をいただくこと

私たち人間は、動物や植物から命をもらって生きています。「いただきます」と日本人は手を合わせますが、これは作ってくれた人への礼儀よりも食材に対する感謝から生まれた言葉です。

人口70億人を突破した今、地球の資源がまかなえる量はとっくにオーバーしてますから、食糧も養殖が盛んになり、工場生産のものが増えてくるでしょう。実際に、いま流通している水産物の半分は、養殖だというデータもあります。野菜も、工場で生産されるものが増えるはずです。

それは人が生きていく上で、資源を刈り取ることなく持続していく方法のひとつなので良いことなのですが、人間の受け取る感情としてはクールになる感じがします。川に行って、魚を釣ってきて、それを食べるという感覚とは明らかに隔たりがある。

たとえば小さな子が「いただきます」という礼儀を教えられて、それを型通り言うとき、命をそこまで意識するだろうかと思うのです。飢えを知れば、その意識はつくでしょう。ただ、命をいただく実体験なしには難しい気がしますが、どうでしょう。

レストランは基本的に楽しむところなので、食育や過度な環境問題を取り上げて、有り難さを押し付けるような息苦しいサービスを避けます。ただ、食に携わる以上、考えることは大事ですし、レストランで楽しみながら自然と「命」を感じていただけたなら、素晴らしいことですよね。

楽しさと感動の中で気付いた感謝は、人に言われて理解するよりも深い。

魚の捌き方について

魚の捌き方はyouyubeを見ればいくらでも出てきますが、同じ鯛を捌くのでも、人それぞれ違います。セオリーはあっても、正解はないんじゃないでしょうか。

あるとすれば、目的がある時。

身は極力、刺身として使いたい時には、いかに歩留まりよく捌くかが需要です。歩留まりというのは、一匹の魚から頭、うろこ、内臓を除き、フィレに卸して、骨、皮を処理した後の正味量のことです。

でも、youtubeを見ていて思うのは、衛生を意外とないがしろにしているな、ということ。汚れたまな板で捌いていたり、ダスター(布巾)も汚かったり。捌き方うんぬんよりまず、食中毒や、食べる人が安心して食せる環境が大事だと私は思います。

それと、どんな包丁を使うか。

三徳包丁一本でもさばけないことはないのですが、日本の包丁というのは、その魚にあわせた形で進化してきました。たとえば、小さな出刃は、小アジやアユなど、出刃包丁は鯛に、また身卸包丁といって骨は断たず、身を卸すためだけの包丁もありますし、サバ割き、といって、サバを捌く為に作られた包丁もあります。たまに、この包丁一本でどんな魚も捌けます、他は必要ないです、という方もいますが、一般の家庭ならいざ知らず、魚専門の料理店や、水産メーカーならば、プロとしての見識が浅いと言わざるを得ないでしょう。魚にあった包丁は、きれいに卸せるだけでなく、生産性も高い。それだけ、無駄が少ないということです。

結論。魚の捌き方は、その環境を求めることからはじまる。

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