創作小咄|トーストの話

近所のらーめん屋さんに行った、その帰り道のことである。

僕たちは、すこし遠回りになるぶん車通りのすくない道を選んで歩いていた。車一台通れるくらいの、細い道である。ふと、落ち着かない違和感を覚えた。日常的によくありそうで、ないものを見た、気がして、もう一度、それを見た。道の端に、ぽつんと、一枚。きつね色にこんがりと焼けた、おいしそうなトーストが落ちていた。

「なにあれ?トースト?」

彼女も気付いたようだった。

「うん、どう見てもトーストだ」僕たちがちょっと驚いたのは、それがあまりにも完璧なトーストだったからだ。「完璧なトーストだね、見た目には非の打ちどころがない」

「どうしてこんなところに落ちてるんだろ?」

「さあ・・・学生か、あるいはサラリーマンとかが家出るときに慌てて落としちゃったんじゃないかな」

そのくらいしか思いつかない。しかし、下手な推測をするにはまだ早かった。彼女が、「あ、あれ見て!」とすこし離れたところを指さしたその先に、トーストと思われる四角い物体が落ちていたのである。

はたして、それはトーストであった。完璧な。

「またしても、完璧なトーストだ」

「ほんと」僕たちは顔を見合わせる。「謎だね」

「わかった、トースト配達じゃないかな。ほら、牛乳配達みたいに、ちゃりかなにかで運んでる途中、ぽろ、ぽろと・・・・」

「えーちがうよ、だいたいそんなの、ないでしょ。きっとあれよ、あれ」

「あれって?」

「だから、あれよ」

「だからあれってなんだよ?」

「犬の仕業ね。あの子ら余計なことばかりするから」

「犬だったら歯形とかつくよ。完璧なんだよ何しろ。焼き具合も、形も。かじった後もなければ、バターもジャムもつけられてない」

「じゃあ、なんだろう?」

「なんだろうね」

その後も僕たちは様々な憶測を飛び交わせた。家を出るときに、歩きながらだか自転車に乗りながらだかトーストを食べようと思っていたところが、途中で落としてしまったんじゃないか、でも、それだと不自然すぎる。何しろ、二枚も、かじりもしないトーストを落とすなんて、よほどのまぬけか、トースト嫌いかだ。トースト嫌い・・・

「そうか、それは考えられなくもないな」

僕は思いつくまま話した。

たとえば彼(トースト嫌い)には、やさしい奥さんがいたとする。彼はなにかのきっかけで、トーストが食べられなかった。食べてお腹を壊したとか、かりかりの部分が喉に突き刺さってトラウマになっちゃった、とか。そのことを奥さんは知らなかった。彼らは新婚で、お互いの好みや習慣をまだ完全に把握しきれていなかったんだ。

ある朝、彼が食卓につくと、上手に焼かれたトーストが二枚、彼の皿にのっかっている。彼は、トーストが食べられないということを言おうとして、思わず、口をつぐむ。あまりにも完璧なトーストだったから、これは奥さんがトースターをじっと見守りながら、自分の為に、これ以上ないくらい、完璧に、焼いてくれたに違いない。そう思うと、彼には何も言えなかった。そこで奥さんは無邪気に尋ねる。あら、どうしたの?お腹の調子でも悪いの?ごめん、焼き具合、気に入らなかったかな。彼には、奥さんの心遣いが嬉しく、本当にかわいらしいひとだと感じられる。しかしその反面、少しだけ、うっとうしくも思ってしまう。言おう、その瞬間、彼は思う。ごめん、僕はトーストが小さい頃から食べられなくてね。そう言って、さっと家を出ればよし!それでこそ、男らしい態度いうもの。自分は亭主なんだ。まいにち奥さんとの未来の為に、一生懸命働いている。亭主の好みにあった朝食くらい、これからは作ってくれなくちゃ。・・・でも、彼の口をついて出たのは弱々しい言葉だった。いや、今日はもう出なくちゃいけないから、歩きながら食べるよ。実は、昔からそういうの憧れてたんだ。歩きながら君の焼いてくれたトーストを食べる、僕は太陽の光を浴びながら、君と暮らすことの歓びを感じるんだ。そう言うと、奥さんは恥ずかしそうに笑って、頬を赤らめる。そのときだけは彼も、嘘をついてよかった、とこころの底から思う。奥さんの笑顔を見れたら、彼は満足だった。問題は、トーストをどうするか・・・。

外に出ると、太陽が痛いくらい、まぶしい。彼がそのとき感じたのは、愛情ではなく、うしろめたさだ。彼はいつになく背中を丸めて、歩き始める。これから、奥さんが焼いてくれたトーストをどうにかしなくちゃならない。彼は、悩んだ。ゴミ箱に捨てようか、いや、だめだ。そんなことはできない。ましてこの、完璧なトーストを犬にくれてやるとか、握りつぶしてめちゃくちゃにしてしまうとか、できるはずもない。もはや彼にとってトーストは、単なるトーストではなくなっていた。あまりにもそれは、完璧に焼かれていたから。彼にとっては、奥さんの愛情、そのものになってしまっていた。彼は歩く道々、考え続けた。そうして、ハッと思いついたのが、トースト配達人。

「配達にこだわるのね」

「奥さんが丁寧に包んでくれた紙の表面に、なにか書こうかとしばらく迷って、結局、彼はこう書く。しあわせ配達人。どうかこれを受け取るのがいいひとでありますように。彼は天にも祈る気持ちで、それをこのあたりの家のポストに入れたんだ。しかし残念ながら、そこの住人は、気味悪いと思って、投げ捨てた。・・・どう?なかなかいいだろ?」

「ちょっとロマンチックに仕立てすぎじゃない?捨ててるのと変らないじゃない」

「意味がちがうよ、せめてもの償いさ。精一杯の」

「どうしてそう都合のいい考え方ばっかりするのかな、女の気持ちなんてひとつもわかってないんだから。私はもっと、現実的だと思う」

彼女は言う。―――たとえば、平凡な家庭の主婦としてね。彼女には小学生くらいの子どもが二人いて、夫は会社勤めのサラリーマン。でも、彼女には秘密があるのよ。夫が出勤し、子供達を学校へ送りだすと、彼女はいそいそと出かける。昼下がりの、浮気よね。よくある話。生活に対して、特別に不満があったわけじゃないのよ。自分が働かなくても、安定した暮らしはできるのだから。そのことに感謝をしてはいたけど、このまま夫や子ども達の世話に明け暮れて生きるのは、なんだか厭だったの。彼女にはまだ、愛し愛されたい、願望があったんだと思う。罰当たりな気持ちなのは承知してる。いい歳して、家庭の主婦が何をくだらないことにうつつを抜かしてるの?なんて、何度も自問もした。でも、淋しかったのね。女は、欲深いもの。共同生活者としての夫に不満はなくても、違う方面の夫に、・・・

「ちょ、ちょっと待って。それは君自身のことじゃないよね?」

「当たり前でしょ。私、まだ結婚してない」

「願望?」

「その若い男の部屋へ行くとき、」彼女は僕を無視して続けた。

彼女はいつも、トーストを持っていくの。男はトーストが大好物なくせに、トースターはおろかレンジも満足なフライパンもないから。だから彼女は自分の家でトーストを焼き、持って行く。もちろん焼きたての方がいいけれど、彼の部屋まではそう遠くなかったし、彼もまた、すこし冷めたトーストを一気に、がりがり、食べるのが好きだったみたい。その食べっぷりは、彼女をボーっとさせるほど、色っぽいものだったんだわ。だって、すごく、男らしいんだもの。それに彼女はね、オーブントースターの前でパンがきつね色に変わっていくのを見るのが、なんともこころ楽しい時間だったのよ、一日でいちばんホッとする時間だった。自分を見ているみたいだったのね。冷めてもおいしく食べてもらえるように、うすーくバターを塗って、焼いたかもしれないわ。やっぱりきれいに見られたいもの、女だから。

そんなある日のこと、いつものように夫と子供たちを送り出して、若い恋人の部屋を訪ねると、彼はいなかった。いや、いなかったんじゃないわね、中にはたしかに人の気配がするのに、彼は出てこなかった。木造の、古いアパートよ。ドアをいくら叩いても返事はない。彼女は混乱したわ。なんで?と思うけど、一方で、それも当然よね、と妙に納得しちゃうところもある。彼は十も下だったし、二人はどうしたって、一緒になることもできない。束の間の、戯れ事。昼さがりの、慕情。そう、ありふれてるわ。どれくらいの間、そこに立ちつくしていたのか、笑い声が聞こえて、彼女はふっと我にかえった。ドアの向こうから、笑い声に交じって、女の甘えた声が聞こえてきたの。彼女は急いでその場を離れた。何も考えられなかったわ。ただ身体の奥がじんじんして、巨大な火山岩でも抱えてるようだった。熱くて、重くて、息をするのも窮屈。しばらくして彼女は気付くの。私、それでもまだ、あの人のことを求めてる。トーストを、がりがり食べるやいなや抱きついてきた男の肌がひたすら恋しかったわ。だけど、もう、終わったこと。そこで、彼女は男のために焼いてきたトーストを取り出すの。それは、あまりにも完璧に焼かれて、きれいだった。だから、彼女は泣けてくる。みじめよね。トーストが完璧な分、自分がみじめに思えてしょうがなかったのよ。投げ捨てよう、と思いきり振りかざすまでして、彼女の手は止まったわ。トーストが憎らしくて仕方ないのと同時に、彼女には愛おしくもあったから。

「妙にリアルだね」

「そして彼女は決別するの。若い男に、というより、トーストを完璧に焼く自分自身に対してね。焼いてきたニ枚のトーストを、ひとつ、ふたつ、気持ちの整理をしながら、道端に落としていく。こんなこと、きっと男にはできないんじゃないかしら」

「自分に都合のいいこと?」

「それはあなたのストーリー。ロマンだけじゃ、生きていくのは大変なのよ。建設的で、前向きな人生の選択は、私の方が優れてるみたいね」

「言ってくれるね。じゃあ聞くけど、らーめん屋で、餃子を2人前とから揚げとおにぎりを追加したのは建設的といえるのかな」

「注文したのは私じゃない」

「食べたいって言ったのは君だ」

「そうね、でもらーめん屋さんでの選択と、人生の選択と、同レベルで考える男って、何だかいやだなあ」

「ふん、やっぱりさっきの話は願望だけじゃなくて、経験も入ってるんだ」

「ねえ、そういうところ、どうにかしてくれない?」

「どういうところ?」

「そういうネチネチした感じのところ」

「ねちねち・・・」

その時である。僕たちは思わず顔を見合わせた。彼女は歌舞伎役者のように口元をМ字にゆがめて、笑うでもなく、怒るでもなく、不思議な表情をした。

「まいったね」と言いながら、僕は吹き出してしまった。

トーストである。またもや、きつね色でふっくらとおいしそうな、完璧なトーストが、道の端に落ちていた。

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