遊び心

創作小説『トーストの話』後編

>>>前編

「配達にこだわるのね」

「奥さんが丁寧に包んでくれた紙の表面に、なにか書こうかとしばらく迷って、結局、彼はこう書く。しあわせ配達人。どうかこれを受け取るのがいいひとでありますように。彼は天にも祈る気持ちで、それをこのあたりの家のポストに入れたんだ。しかし残念ながら、そこの住人は、気味悪いと思って、投げ捨てた。・・・どう?なかなかいいだろ?」

「ちょっとロマンチックに仕立てすぎじゃない?捨ててるのと変らないじゃない」

「意味がちがうよ、せめてもの償いさ。精一杯の」

「どうしてそう都合のいい考え方ばっかりするのかな、女の気持ちなんてひとつもわかってないんだから。私はもっと、現実的だと思う」

彼女は言う。―――たとえば、平凡な家庭の主婦としてね。彼女には小学生くらいの子どもが二人いて、夫は会社勤めのサラリーマン。でも、彼女には秘密があるのよ。夫が出勤し、子供達を学校へ送りだすと、彼女はいそいそと出かける。昼下がりの、浮気よね。よくある話。生活に対して、特別に不満があったわけじゃないのよ。自分が働かなくても、安定した暮らしはできるのだから。そのことに感謝をしてはいたけど、このまま夫や子ども達の世話に明け暮れて生きるのは、なんだか厭だったの。彼女にはまだ、愛し愛されたい、願望があったんだと思う。罰当たりな気持ちなのは承知してる。いい歳して、家庭の主婦が何をくだらないことにうつつを抜かしてるの?なんて、何度も自問もした。でも、淋しかったのね。女は、欲深いもの。共同生活者としての夫に不満はなくても、違う方面の夫に、・・・

「ちょ、ちょっと待って。それは君自身のことじゃないよね?」

「当たり前でしょ。私、まだ結婚してない」

「願望?」

「その若い男の部屋へ行くとき、」彼女は僕を無視して続けた。

彼女はいつも、トーストを持っていくの。男はトーストが大好物なくせに、トースターはおろかレンジも満足なフライパンもないから。だから彼女は自分の家でトーストを焼き、持って行く。もちろん焼きたての方がいいけれど、彼の部屋まではそう遠くなかったし、彼もまた、すこし冷めたトーストを一気に、がりがり、食べるのが好きだったみたい。その食べっぷりは、彼女をボーっとさせるほど、色っぽいものだったんだわ。だって、すごく、男らしいんだもの。それに彼女はね、オーブントースターの前でパンがきつね色に変わっていくのを見るのが、なんともこころ楽しい時間だったのよ、一日でいちばんホッとする時間だった。自分を見ているみたいだったのね。冷めてもおいしく食べてもらえるように、うすーくバターを塗って、焼いたかもしれないわ。やっぱりきれいに見られたいもの、女だから。

そんなある日のこと、いつものように夫と子供たちを送り出して、若い恋人の部屋を訪ねると、彼はいなかった。いや、いなかったんじゃないわね、中にはたしかに人の気配がするのに、彼は出てこなかった。木造の、古いアパートよ。ドアをいくら叩いても返事はない。彼女は混乱したわ。なんで?と思うけど、一方で、それも当然よね、と妙に納得しちゃうところもある。彼は十も下だったし、二人はどうしたって、一緒になることもできない。束の間の、戯れ事。昼さがりの、慕情。そう、ありふれてるわ。どれくらいの間、そこに立ちつくしていたのか、笑い声が聞こえて、彼女はふっと我にかえった。ドアの向こうから、笑い声に交じって、女の甘えた声が聞こえてきたの。彼女は急いでその場を離れた。何も考えられなかったわ。ただ身体の奥がじんじんして、巨大な火山岩でも抱えてるようだった。熱くて、重くて、息をするのも窮屈。しばらくして彼女は気付くの。私、それでもまだ、あの人のことを求めてる。トーストを、がりがり食べるやいなや抱きついてきた男の肌がひたすら恋しかったわ。だけど、もう、終わったこと。そこで、彼女は男のために焼いてきたトーストを取り出すの。それは、あまりにも完璧に焼かれて、きれいだった。だから、彼女は泣けてくる。みじめよね。トーストが完璧な分、自分がみじめに思えてしょうがなかったのよ。投げ捨てよう、と思いきり振りかざすまでして、彼女の手は止まったわ。トーストが憎らしくて仕方ないのと同時に、彼女には愛おしくもあったから。

「妙にリアルだね」

「そして彼女は決別するの。若い男に、というより、トーストを完璧に焼く自分自身に対してね。焼いてきたニ枚のトーストを、ひとつ、ふたつ、気持ちの整理をしながら、道端に落としていく。こんなこと、きっと男にはできないんじゃないかしら」

「自分に都合のいいこと?」

「それはあなたのストーリー。ロマンだけじゃ、生きていくのは大変なのよ。建設的で、前向きな人生の選択は、私の方が優れてるみたいね」

「言ってくれるね。じゃあ聞くけど、らーめん屋で、餃子を2人前とから揚げとおにぎりを追加したのは建設的といえるのかな」

「注文したのは私じゃない」

「食べたいって言ったのは君だ」

「そうね、でもらーめん屋さんでの選択と、人生の選択と、同レベルで考える男って、何だかいやだなあ」

「ふん、やっぱりさっきの話は願望だけじゃなくて、経験も入ってるんだ」

「ねえ、そういうところ、どうにかしてくれない?」

「どういうところ?」

「そういうネチネチした感じのところ」

「ねちねち・・・」

その時である。僕たちは思わず顔を見合わせた。彼女は歌舞伎役者のように口元をМ字にゆがめて、笑うでもなく、怒るでもなく、不思議な表情をした。

「まいったね」と言いながら、僕は吹き出してしまった。

トーストである。またもや、きつね色でふっくらとおいしそうな、完璧なトーストが、道の端に落ちていた。

~創作小説シリーズ~

●創作小説『藤田氏の告白』

●創作小説『トカゲ一家』

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