遊び心

創作小説『トカゲ一家』後編

>>>前編

・・・コギトエルゴスム

夢から覚めると湿った森の香りがした。切り株の陰でひと眠りしたご主人は、あの詩は何だったかなと、思い返していた。頭を振り、目をパチパチさせる。レシートが落ちていた。コギトエルゴスム。われ思う、ゆえに我あり。言葉の響きが気にいっていた。

ポトッと、朝露が落ちる音がした。土は吸い込むから、音はしない。落ちている枝はもっと乾いた音がする。それはなにか、この世のものとは思われない美しいものに触れた、音だ。その山のしずくになりたいものです、と詠った夢の男を思い出した。

「あ・・・」

ご主人は、言葉を失った。前を行く、奥さんの後ろ姿をみつけたからだ。ポトッと朝露が奥さんの肩に落ち、なめらかな肌を伝って、尻尾の先まで、ツーッと流れていった。

奥さんは振り返る。アンニュイな表情がたまらなく素敵だった。

「我待つと・・・」はやる気持ちを抑え、ご主人はできるだけ落ち着き払って、言った。「君が濡れけむ、あしひきの山のしずくに成らましものを・・・」

奥さんにはすぐに、コギトエルゴスムと書いたのがご主人だとわかったそうだ。でもそのとき、「正直なところ、面喰ったわ」と奥さんは言っていた。すこしの間、一切の時間が止まった。その詩は知っていた。落ち着いて考えると、頭がおかしいのではないかと思える。私の身体を伝った朝露になりたい?初対面でそんなこと言われるのは初めてだった。

「ただ、、、なんでだろう、しびれちゃったのよね」

そんなトカゲ一家の住む家は、一年を通して過ごしやすい。夏は涼しく、冬は暖かいのだ。温度は常に18度に保たれている。湿度も65%くらいだそうだ。私たちはね、肌も強いし変温動物だけど、身体にはこれが一番いいのよ。と奥さんはいう。だからか、奥さんの肌はとてもきれいだ。きめ細かくて、光沢がある。何十万円もする高級鞄のようだ、といったらもちろん失礼である。

そういうわけで僕は、週末の夕方をトカゲ一家と共に過ごす。

ある週末のことだった。イチョウの葉に包んだ、ミミ寿司(いちおう解説しておくと、ミミズを酢〆した押し寿司)を手土産にトカゲ一家を訪れると、いつものように、奥さんがこれ以上ないくらいの笑顔で僕を迎えてくれた。尻尾で身体についた土をきれいに払ってくれる。これはトカゲの世界では、親しい友人を迎え入れる際のマナーである。しかしいつもの奥さんとは何かが違うように思った。目は心持ち腫れているし、良く見ると、肌も荒れてガサついている。いつもきちんと手入れされているから、ちょっとおかしい。

「何か、あったんですか?」

ドアを閉めてからさりげなく、訊いてみた。

「いえ・・・」奥さんはひどく動揺したようだった。そして僕を二秒くらい申し訳なさそうに見つめてから、少しうつむくと、入ってください、というように尻尾を力なく振った。

居間では、トカゲ一家の主人が眉間に皺を寄せて、ドーム型の室内のある一点を熱心に見つめていた。僕に気付くと、ゆっくりと顔を向けて「やあ」といった。目は、笑っていない。ナイフで突き刺したように縦に走る裂け目の奥から、僕を見る。部屋の片隅で、ひとり息子がうずくまっていた。やけに短いなと思った。

「君に話したことあったかな」

主人は唐突に言った。ごろごろとした、独特のユーモラスな声は、そこになかった。

「尻尾は男の誇りだ」

そうか、と思った。暗くてよくわからなかったが、よく見るとひとり息子の尻尾がない。うずくまっているように見えたのはそのせいだ。根元からぷっつりと尻尾がちぎれていた。

「あとひと月もすれば、また生えてくるだろう。でも、そういう問題じゃない」

僕は頷いた。

「牙を抜かれた虎が狩りをできるか?羽をもがれた鳥が空を飛べるか?」

ふたたび、主人は部屋の一点を凝視した。息子はぐったりとしている。奥さんは、静かにうつむいていた。

長い沈黙だった。

しん、と時間が止まったように誰もがぴくりとも動かなかった。尻尾をもがれたトカゲは、人でいえば何に置き換えられるんだろう。何を奪われるようなものなんだろう。主人のいうように、男の誇りだろうか?それとも、脳?心?金?

でも、尻尾はひと月もすればまた元通りになる。そういう問題じゃない、とはどういうことか。僕は混乱してきた。博物館の中に迷い込んだような錯覚に陥った。ここは土の中の模型で、周りは皆、はく製じゃないのか?

どこからともなく、ドビュッシーの「月の光」が流れてきた。沈黙は、破られた。

「今日のところは帰ってもらえるかい?」

主人が静かに言った。むろん、僕もそのつもりだった。ミミ寿司を奥さんに手渡し、僕は地上に出た。すでに日は沈み、虫の音がうるさくなっていた。

ドビュッシーの「月の光」はまだ、流れていた。

~創作小説シリーズ~

●創作小説『藤田氏の告白』

●創作小説『トーストの話』

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