幸せとは何か?自分を殺さない生き方と菜根譚

世界中の誰もが果たしたい人生の目的。それは、幸せだと思います。料理人にも、政治家にも、アーティストにも犯罪者にも、理想とする幸せはある。

私は、人を知る、ということがとても大事なことだと直感的に思っていました。それは、人を知るということが、どちらかというと、苦手だったからです。若い頃は、自意識過剰なところがあったと反省しています。菜根譚は、そう言った意味で、書き留めておきたい言葉がたくさん、ありました。

それをきっかけに、幸せとは何か?考えていきたいと思います。

目次

幸せとは相対的なものであるからこそ、強みを強化する

サービスを提供することを通して、感じてほしいのはやはり幸せです。

幸せとはしかし、多くの人にとって、相対的なもので、多種多様です。食べて美味しいという喜び、それを心地良い空間で提供することで、幸せを感じてもらうのがレストランでしょう。

でもそれはどこのレストランでも提供できるものであり、最低限、お客様が期待するものでもあります。だからレストランはその店なりのオリジナリティを追求します。ミシュランの三ツ星レストランは、料理に特色を持たせ、哲学を入れていきました。低価格で活気を持たせたのが、立ち飲みやバルのような業態。ライブ演奏や料理教室などで、お客様にも参加してもらう企画を組んだり、エンターテイメント性を足していったレストランもあります。

構想レストランの強みをどう訴求すれば、お客さまの幸せにつながるのか

何を強みとするかということで、マーケティングではSTP分析といいます。繰り返し考えてきたことですが、コンセプトは「人生最良の美味しい記憶をお創りしたい」。それには、お客様に感動を与え、幸せにつながることが提供できないと実現できません。

感動は、普通では、だめです。人と同じことをやっても、お客様は感動しない。

構想レストランでは、お客様と感動体験を共有したいと考えています。料理はそれを再現させるものの大きなひとつ。たとえば、高尾山の恵まれた自然の中で、食事を楽しめること。にぎやかな音楽も不要で、自然の音や、相手との会話にゆっくり耳を傾けて頂けます。

そんな中、火を起こし、パスタをこね、目の前で、お客様の為の料理を作っていく。庭に生えたハーブを摘み、仕上げに散らす。水は、井戸の水。料理に自然を表現するのではなく、自然と共に料理を作る。それが、感動体験を共有すること。価値観を共有できる、お客さまの幸せにつながるのではないかと思うのですがいかがでしょうか。

幸福とは何なのか?

レストランにおいて、「食を通じてお客様に幸福を」とする企業や店舗は多い。それだけ、人は幸福になりたくて生きているということだと思います。でも幸福とは何なのか?幸福を与えるというが、与えることができるのか?

幸福、という意味は人によって解釈が微妙に違い、漠然としている言葉のひとつだと思います。よく比較される話ですが、今日食べるものもなくてお腹を空かしている子供にとって、幸福とはひとかけらのパンであるかもしれない。

一方、何の苦もなく毎日3食たべている子供にとって幸福とは何なのか。美味しいケーキかもしれないし、ゲームかもしれない。もしかしたら、幸福を感じることもないかもしれない。

どちらが良いとは私は言えません。人の感覚、感情はいつも相対的です。ただこれだけ幸福という言葉にも落差がある。

幸せとは、感謝できるこころではないか

私なりの答えはあります。それは、感謝できるこころ。日本には食事の前に「いただきます」と手を合わせる習慣がある。そのこころです。苦もなく3食たべれる子供にとって、もしその感謝できるこころを失したら、幸福とは何かをわからなくなるはずです。

だから幸福は、与える与えないの問題ではなく、主体的に感じていくものだと私は考えています。心理学者ウィリアム・ジェームズの有名な言葉に「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ」とあります。私はこの言葉に対してはじめは反発していましたが、その意味するところがようやく解ってきました。

でも、これを理解しておかないと、レストランではお客様を満足させるためにひたすら美味しさを追求し、サービスは奉仕一辺倒になる。それは違います。お客様が感じる幸福のごくごく一部であり、すぐに限界が来る。何より、薄っぺらいですよね。言葉の意味を深めていくと<本質>にどんどん近づいていく気がします。その本質を突き詰めていくことで、見えてくる新しい世界がある。まるで旅のようです。

もう、自分を殺してはいけない

「それは違う。」

そう思っているのに、従わざるを得なかった経験はありますか?例えば、部活動の監督の指導、上司の指示、社長の方針。結果、やっぱり自分の思ったとおりにすればよかった!なんて後悔した経験。組織に属するその属し方にもよりますが、一般的なピラミッド型組織の場合、一定の規律と規範があり、そこから外れることはタブーでした。

日本人が大切にしてきた調和。人の和。協調精神。

文化として根付いた枠組みから外れる人を、異端児、あるいは無法者。場合によっては、犯罪者になります。

飼いなされたサラリーマン

<普通>は嫌だな格好悪いな、という思いがありました。

高校を卒業し、大学に進み、就職して、所帯を持ち、生活水準を上げるため頑張って働くステレオタイプな生き方に魅力を感じなかったんです。今では、一概にそうとも思わなくて、<普通>であり続けること自体が奇跡だし「すごい」と思いますが、ただひとつ譲れないことは、誰かに左右される人生は嫌だということです。

会社に属している限り、人生の主導権は自分にありません。いや、本当はあるのに、そうできなくなっているというのが正しいでしょうか。いずれにしても約束された所得の代償として、時間をはじめ、多くの自由を奪われることは確かです。

誰かの言いなりになりたくないし、飼いならされたくない。

後悔のない失敗なら納得できる

最近、目にするのは、ある分野で突き抜けた人たちが口々に言っている、個人の力や人間力です。

皆で堕ちていくのを選ぶか?

ひとり、這い上がる道を選ぶか?

極端な言い方になりますが、誰もがいずれかの選択を迫られている時代だと感じます。皆でいると安心です。

でも、それで本当に自分は幸せか。

死ぬ間際に、与えられた人生を生き切ったと言い切れるか。疑問です。たとえ、失敗しても、自分で考え、自ら選択した失敗は、誰かに同調して後悔するより、よほど価値がある。

もう、自分を殺すのはやめよう

これまで多くの人が会社の理念とルール、方針に従ってやってきたわけですが、国自体が盤石とはいいがたい中、依存するのは大変なリスクです。ある投資家が言っていました。

会社や強者に依存する時代は終わったと。

これからは、ひとりで生き抜く力を持たないと大事なものも守れません。それには心から共感します。

誰かに依存しなくても、生きていける。その自信が、誰にも指図されない人生を築く一歩となる。そして、それが出来てきたら、やりたいことを思いっきりやれる環境を整えていきます。これまで得手不得手かまわず、自分の意志も無視して、与えられたことをこなしてきました。

会社や強者に屈して、固唾をのんだこともしばしば。しかしもう、そうする必要はありません。自分を殺す必要はない。自分はどんな人間で、何が得意で何が苦手なのか、自分のやりたいことでどうやって相手を幸せにできるのか。

その一点に絞って、人生の選択をすべきときでしょう。

菜根譚の教え

ここで、こころに響いた菜根譚の教えをご紹介したいと思います。

潔を好み独り行うの操を持すべからず

独りよがりの潔癖は下げるべきだ。

磨礪(まれい)はまさに百煉の金の如くすべし、急就(きゅうしゅう)は邃養(すいよう)にあらず

自分を磨くときには金を鍛錬する時のようにじっくり時間をかけなかえればならない。速成ではどうしても底が浅くなる。

経路の狭き処は、一歩を留めて人の行くに与え

狭い小道を行く時は、一歩下がって人に道を譲ってやる。

耳中、常に耳に逆らう言を聞き、心中、払(もと)のことあらば、わずかにこれ徳に進み行いを修るの砥石なり。もし言々耳を悦(よろこ)ばし、事事心に快ければ、すなわち、この生を把りて鴆毒(ちんどく)のうちに埋在せしむるなり

たえず不愉快な忠告を耳にし、思い通りにならない出来事を抱えていてこそ、自分を向上させることができる。耳に快いことばかり聞かされ、思い通りになることばかり起こっていたらどうなるか。自分の人生をわざわざ独びたしにしているようなものである。

目次