学生の頃、枕カバーがびしょ濡れになるほど涙した小説がありました。
読み終えたのは午前4時すぎ。
うっすらと陽が昇ろうとする6月の早朝でした。
その日の授業は昼からの講義だけ。
結末を繰り返し読んでは、涙しました。
その小説というのが、三浦綾子著『塩狩峠』。
自己犠牲とは
『塩狩峠』は、1967年の冬、北海道塩狩峠であわや脱線事故で大惨事にいたるところを偶然乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄氏が捨て身で止めた実話がベースになっています。
小説の中での主人公、永野信夫は幼少のころ祖母と、父の3人暮らし。母は、キリスト教徒で、キリスト教を嫌った祖母から追いだされていました。
やがて祖母が死ぬと、信夫は母と暮らすようになり、キリスト教に出会います。この小説はもともとキリスト教の教会誌での連載でしたので、宗教色がやや強いのです。
彼はやがて、親友の妹に特別な感情を抱きますが、彼女は身体の不自由な人で、信夫はあらゆる手をつくして回復させる援助をしてきました。そして、彼女へ結婚を申し込むのです。
事故は、その、結納の当日でした。
札幌に向かう列車が事故を起こします。塩狩峠の斜面を下る客車は止まらず脱輪して、このままカーブに入れば客車は転落し、乗客は助かりません。
信夫は自分の命と引き換えに、客車を止めるのです。
自己犠牲の物語
『塩狩峠』に限りませんが、感動して涙を流す物語にはある共通の人生哲学があることに気づきました。
それが自己犠牲です。
私はキリスト教ではありませんが、こんな教えがあります。
『わたしがあながたを愛したように、互いに愛しあいなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』
ヨハネ福音書 15章12&13節
日本でも主君の為に命を捨てることが美徳とされた時代もありました。
古来より、こうした自己犠牲の物語は、胸を打つものがあります。
何の見返りもなく、その精神性が気高く、ピュアだからでしょうか。
現代の自己犠牲は欺瞞
現代における自己犠牲は、どこか捉え方が浅い気がします。
夫の為に尽くす妻、上司のいう事を何でも聞く部下・・・。
それを、自己犠牲という人もいる。
たしかにそうかもしれないですが、見返りを求めている点で、ピュアではない。
不思議なもので、自己犠牲と言葉にしない方が胸を打たれます。
いま、自分の職責を全うする為に医療機関で働く人たちは、自己犠牲というでしょうか。
自分も感染するリスクを抱えながら、患者を守る。
その精神性の高さには敬服します。
コロナショックにより、人の暮らしから考え方、働き方は大きく変わるのでしょう。
どうなるのか?というよりも、どう生きたいのか?
たいせつな人たちと楽しく人生を送る為に必要な資産と、生き方を、ない頭で頑張って考えてます。あなたのお役に立てれば幸いです!