週末の夕方は、トカゲ一家を訪れる。
ゴツゴツした石の間を4つほど通り抜け、2歩ほど進めて、東に5歩、南に4歩、さらに東に3歩。まとまりのよい軟らかい土を押し分けたところに彼らの家はある。彼らはいつでもあたたく、歓迎してくれる。それに奥さんの作る料理はすごくおいしい。中でもダンゴムシのから揚げは絶品だ。香ばしさは海老のようだし、身質の甘み、繊細さたるや、まるでうなぎである。食後にいつも出してくれるモンシロチョウの幼虫のお酒は、はっきりいって、熟成させた貴腐ワインよりも人々を陶酔させる。つまりね、この世の悪魔であり、一編の詩であり、またとない芸術だ、とトカゲ一家の主人は言う。ごろごろとした、独特のユーモラスな声で。(ところで、読者のみなさん、誤解してはいけない。頭はおかしくはない。僕は良識的な人間である。ものごとを見るのに偏った見方をしないように常々、こころがけている。おおくの真実とされるものが、語り手によって歪められ、何が正しくて、何が間違っているのかさえも、分らなくなっているのが世の常。僕たちの身にしばしば起こる、不思議な出来事は、素直に受け止めると、実はとても、ファンタジックなものである。)
トカゲ一家の主人の話は、多岐に渡り、尽きることはない。訪れ始めて、もう3年になろうとしている今でも、枯渇することのない井戸のようである。汲んでも汲んでも、話題はあふれ出てくる。奥さんとの馴れ初めを聞いた時は、感動してしまった。ご主人は当時、学生だった。詩を学んでいた。奥さんは、すこし名の知れたダンサーだった。それだけでも、映画になりそうな設定だが、出会いはダンスホール、ではない。朝露、そのひとしずくが、二人を結びつけた。
仕事を終えた奥さんは、朝の山道をそろそろと歩いていた。アンニュイな、(とはご主人の表現だ)うつくしい尻尾をなびかせて、ある大きな切り株の前を通り過ぎたとき、ふいと振り返った。コギトエルゴスム。捨てられたレシートの裏に、そう書かれていた。
「コギトエルゴスム・・・」奥さんはつぶやいた。意味はわからなかったが、その言葉の響きに惹かれた。ご主人はそのとき、目を覚ました。普段あまり夢を見ないのに、その時ばかりは鮮明に覚えていたそうだ。誰かを待つ、女性。その肩に、朝露がひとしずく、落ちた。ご主人にはわかっていた。その相手は、来ない。決して来ることはない。なぜならその人は、その日、謀反の罪で流罪にされたからだ。ご主人の頭の中は、さまざまな詩を学ぶあまり、いろいろな物語がごちゃごちゃになっていたらしい。女の心境を、ご主人は読み解いた。
「あしひきの山のしずくに君待つと我が立ち濡れぬ山のしずくに」
つまりね、―――ご主人は僕に解説した。あなたを待っていたら、たち濡れてしまいましたよ、山のしずくで。という感じなのだよ。
続いて、その男の返歌を、ご主人は詠んだ。
「我待つと君が濡れけむあしひきの山のしずくに成らましものを」
私を待ち続けて、あなたを濡らしている山のしずくに僕もなりたいものです。
二人は最初から、一緒にはなれない関係だった。らしい。つまりね、(ご主人の話し方で唯一みっともないのは「つまりね、」という口癖だ)―――男が奪ったのは、皇帝の寵愛を受けた、うるわしき侍女だったのだよ。謀反の罪で流罪にされたのもそのためだ。
・・・コギトエルゴスム
夢から覚めると湿った森の香りがした。切り株の陰でひと眠りしたご主人は、あの詩は何だったかなと、思い返していた。頭を振り、目をパチパチさせる。レシートが落ちていた。コギトエルゴスム。われ思う、ゆえに我あり。言葉の響きが気にいっていた。
ポトッと、朝露が落ちる音がした。土は吸い込むから、音はしない。落ちている枝はもっと乾いた音がする。それはなにか、この世のものとは思われない美しいものに触れた、音だ。その山のしずくになりたいものです、と詠った夢の男を思い出した。
「あ・・・」
ご主人は、言葉を失った。前を行く、奥さんの後ろ姿をみつけたからだ。ポトッと朝露が奥さんの肩に落ち、なめらかな肌を伝って、尻尾の先まで、ツーッと流れていった。
奥さんは振り返る。アンニュイな表情がたまらなく素敵だった。
「我待つと・・・」はやる気持ちを抑え、ご主人はできるだけ落ち着き払って、言った。「君が濡れけむ、あしひきの山のしずくに成らましものを・・・」
奥さんにはすぐに、コギトエルゴスムと書いたのがご主人だとわかったそうだ。でもそのとき、「正直なところ、面喰ったわ」と奥さんは言っていた。すこしの間、一切の時間が止まった。その詩は知っていた。落ち着いて考えると、頭がおかしいのではないかと思える。私の身体を伝った朝露になりたい?初対面でそんなこと言われるのは初めてだった。
「ただ、、、なんでだろう、しびれちゃったのよね」
そんなトカゲ一家の住む家は、一年を通して過ごしやすい。夏は涼しく、冬は暖かいのだ。温度は常に18度に保たれている。湿度も65%くらいだそうだ。私たちはね、肌も強いし変温動物だけど、身体にはこれが一番いいのよ。と奥さんはいう。だからか、奥さんの肌はとてもきれいだ。きめ細かくて、光沢がある。何十万円もする高級鞄のようだ、といったらもちろん失礼である。
そういうわけで僕は、週末の夕方をトカゲ一家と共に過ごす。
ある週末のことだった。イチョウの葉に包んだ、ミミ寿司(いちおう解説しておくと、ミミズを酢〆した押し寿司)を手土産にトカゲ一家を訪れると、いつものように、奥さんがこれ以上ないくらいの笑顔で僕を迎えてくれた。尻尾で身体についた土をきれいに払ってくれる。これはトカゲの世界では、親しい友人を迎え入れる際のマナーである。しかしいつもの奥さんとは何かが違うように思った。目は心持ち腫れているし、良く見ると、肌も荒れてガサついている。いつもきちんと手入れされているから、ちょっとおかしい。
「何か、あったんですか?」
ドアを閉めてからさりげなく、訊いてみた。
「いえ・・・」奥さんはひどく動揺したようだった。そして僕を二秒くらい申し訳なさそうに見つめてから、少しうつむくと、入ってください、というように尻尾を力なく振った。
居間では、トカゲ一家の主人が眉間に皺を寄せて、ドーム型の室内のある一点を熱心に見つめていた。僕に気付くと、ゆっくりと顔を向けて「やあ」といった。目は、笑っていない。ナイフで突き刺したように縦に走る裂け目の奥から、僕を見る。部屋の片隅で、ひとり息子がうずくまっていた。やけに短いなと思った。
「君に話したことあったかな」
主人は唐突に言った。ごろごろとした、独特のユーモラスな声は、そこになかった。
「尻尾は男の誇りだ」
そうか、と思った。暗くてよくわからなかったが、よく見るとひとり息子の尻尾がない。うずくまっているように見えたのはそのせいだ。根元からぷっつりと尻尾がちぎれていた。
「あとひと月もすれば、また生えてくるだろう。でも、そういう問題じゃない」
僕は頷いた。
「牙を抜かれた虎が狩りをできるか?羽をもがれた鳥が空を飛べるか?」
ふたたび、主人は部屋の一点を凝視した。息子はぐったりとしている。奥さんは、静かにうつむいていた。
長い沈黙だった。
しん、と時間が止まったように誰もがぴくりとも動かなかった。尻尾をもがれたトカゲは、人でいえば何に置き換えられるんだろう。何を奪われるようなものなんだろう。主人のいうように、男の誇りだろうか?それとも、脳?心?金?
でも、尻尾はひと月もすればまた元通りになる。そういう問題じゃない、とはどういうことか。僕は混乱してきた。博物館の中に迷い込んだような錯覚に陥った。ここは土の中の模型で、周りは皆、はく製じゃないのか?
どこからともなく、ドビュッシーの「月の光」が流れてきた。沈黙は、破られた。
「今日のところは帰ってもらえるかい?」
主人が静かに言った。むろん、僕もそのつもりだった。ミミ寿司を奥さんに手渡し、僕は地上に出た。すでに日は沈み、虫の音がうるさくなっていた。
ドビュッシーの「月の光」はまだ、流れていた。