400年以上前からイギリス人を魅了したフランスワイン。
同じブドウ品種を使い、どうしてここまで個性の差が出るのか。ワインとは本当に面白いものです。
さて、フランス5シャトー大シャトーのひとつ、シャトー・オー・ブリオンの物語をお話します。
ジョナサン・スウィフト
舞台は17世紀後半、ロンドン。
「ポンタック亭」という居酒屋で、ひとりの男がワインを飲んでいました。
長くカールしたきれいな銀髪で、目は異様に大きく、顎の下のたっぷりとした肉は、長いこと蓄積されてきた自意識のたまものか、恋をすればそれはしぼみ、恋が終われば、またふくらんでくる。そんな彼の顎を、友人は「ふうせん顎」とからかいました。
彼は時の流行作家、ジョナサン・スウィフト。
のちに『ガリバー旅行記』をものして、後世に名を残す作家となりますが、このとき彼は恋に破れ、垂れ下った顎の肉を、重たそうに持ち上げながら、ワインを飲んでいました。
サミュエル・ピープスの日記
「サミュエル・ピープスという人を知っているか?」
バーテンダーに、彼は尋ねます。
「彼は日記を書いていた。ただの日記じゃない。誰もが興味を抱くような秘密に満ちた、赤裸々な私生活を書いたものだ。それも奥さんにばれたらまずいから、特殊な暗号を使った速記文字で書いている。」
夜は深い。その居酒屋は、旅館も兼ねていました。おやすみ、といって、お客は次々と部屋に上がっていきます。
「ある夫人が、秋の夜長の寂しさを紛らしたいから、その本を探し求めたとか。」
とバーテンダーが答えます。
「よく知っているね。そうだ、私はそれをちらと読む機会があった。そこに、こんな記述がある。……フランスワインとおぼしきものを飲んだ。オー・ブリアンと呼ばれていたが、いまだかつてお目にかかったことがないような、特有な味わいをもった、うまいものだった。」
フランスの宝石
スウィフトはワインを飲みほすと、大きな目をぎょろっと回して、バーテンダーを見ました。
「このワインのことさ。でも、それだけじゃない。もうひとつ意味がある。ブリアンはフランス語で、宝石、なんだよ。わかるか?」
バーテンダーは、首をふります。
しかし彼はなにもかも知っていました。「ポンタック亭」は、そのワイン、シャトー・オー・ブリオンの所有者の親戚が開いたお店です。ワインはもちろん、料理人も現地から派遣され、『ロンドンで一番、粋な店』と噂されていました。
そして、スウィフトが、フランス女性に恋をして、その恋に破れたであろうことくらい、バーテンダーである彼には、すぐに察しのついたことなのです。
「サミュエル・ピープスといういけすかない野郎は、フランスの宝石をとことん、あじわったわけだ。」
ウィーン会議
時は流れて、1814年。
オーストリアの首都ウィーンで、ヨーロッパ諸国が集まって会議をしたことがありました。議題は、秩序再建と、領土分割。
フランス革命、ナポレオン戦争を経て、ヨーロッパ中の人々が秩序を必要としていたのです。ナポレオン・ボナパルトは、フランスの英雄と讃えられていますが、ヨーロッパ中を侵略、席巻し、一時は征服するものの、さらに欲を出してロシアまで歩を進めた結果、敗北し、失脚しました。
ウィーンでの会議は、いわばその戦後処理。ヨーロッパ各国の身の振り方を、国家レベルで決める必要がありました。敗戦国であるフランスにとっては、我が領土さえ脅かされる状況にあったのです。
外相タレーラン
そのときフランスの代表として外交にあたったのが、タレーランという人でした。かつてはナポレオンに仕えていましたが、ヨーロッパ中を支配する拡大戦略には相容れず、袂を分かちます。彼は、ずらりと顔をそろえた各国の要人たちを前に、主張しました。
「ヨーロッパを混乱させ、陥れたのは、ナポレオンであり、フランス国ではございません。私たちはむしろ、被害者なのです。」
この外相タレーラン、実はあのフランスの宝石、シャトー・オー・ブリオンの所有者でもありました。
彼は会議で催される晩餐会を、フランス国主導で進めようと思い立ちます。なんといってもフランスは敗戦国であり、オーストリア、ロシア、イギリスなど、大国を前に正当性を訴える権利さえない。ナポレオンを敗北させた国にしてみれば、フランス国の領土も分割し、自国の領土にしようと考えていたでしょう。
料理人アントナン・カレーム
タレーランは、美味しいものが人のこころを和ませることをよく知っていました。彼に仕えていた料理人、アントナン・カレームに、言います。
「カレーム、重複した料理のない、季節物の食材を使って、1年間のメニューを考えなさい。」
カレームは、フランス料理のソースを分類したともいわれる料理人。
10歳のとき、親に捨てられ、門を叩いたのがしがない安食堂でした。父親は別れ際、彼にこう言い残したといいます。
「さあ行け、世の中にはいい仕事もある。貧乏は俺たちの運命だが、幸運をつかむのはお前の才気次第だ。今夜か明日、お前のためにどこかの店が開くだろう。神がお前に授けたものと共に行ってしまえ。」
この言葉はいつも彼の耳に響いていました。寝る間をおしんで、彼は勉強したといいます。
立ちあがることもできない、狭い屋根裏部屋。誇張じゃなく、星の光のもとで、文字を読めるようになることから始めなければなりませんでした。父親の声が、聞こえてきます。それがさらに彼を掻き立てました。決して、恨んではいない。ただ、運命を、彼は信じました。
ピエスモンテ
10歳の時、親に捨てられ、安食堂に拾われたアントナン・カレームは、必死で勉強します。
もの覚えが良い彼は、2年もすると、料理に関することなら不自由なく本が読めるようになります。そして17歳のとき、彼の努力は認められ、有名パティシエ、バイィの弟子入りを許されたのでした。
そのころから時々、画廊を渡り歩くようになります。ものの造形、色彩、バランス。自然の中に偉大さを見、人々が織りなしてきた芸術作品に、その調和を見出しました。
彼の芸術的な土壌はさながら砂漠のように広大であり、そうした美しさに触れるたび、うるおい、貪欲に吸収されていきます。師匠のバイィはすぐにその才能の芽を認め、ある国際的な祝宴のテーブルに、彼のピエスモンテを出すことを約束しました。
ピエスモンテとは、砂糖や焼き菓子などを用いて、建築物のように積み上げた、精巧かつ装飾的な意味合いの細工菓子。当時の菓子店のショーウィンドーにはよく飾られていて、パティシエのセンス、知識、技術、人間性を問われる、看板作品でした。
もとより、建築に興味のあった彼は、すでにおおくの知識と、発想を持っており、それを形にする才能にも秀でていました。ピラミッドや、東洋の寺院、古代の遺跡をかたどったピエスモンテを創造します。それを見た人々は驚嘆しました。中にはその高さが数フィート(1メートル以上)にも達し、道化がその上に乗って、踊れるほどだったといいます。
目論見
タレーランも、そのピエスモンテに感動したひとりでした。師匠のバイィがタレーラン邸に出入りしていた縁もあり、カレームはタレーラン邸お抱えの料理人になります。
シャトー・オー・ブリオンの所有者になったのも、ちょうど、そのころのことでした。「フランスの宝石」とジョナサン・スウィフトも話していた、噂のワインです。
外交にワインを利用するのは、フランスの外相として常とう手段。その外交手腕において右に出るものはなかったというタレーランですから、どんなワインが自国を最も有利にするか考えたのでしょう。名だたるワインの中でも、彼は「フランスの宝石」を選んだのでした。
タレーランは、カレームに課題を課します。
「カレーム、これはフランスの宝石ともいわれる最高のワインだ。このワインに合わせる素晴らしい料理を考えてみなさい。」
カレームにとっては、それまでワインと料理というものを合わせて楽しんだことがありません。
貧困のどん底にいた彼にとっては、ワインはまだまだ高級品であったのです。キッチンで、彼は悩みました。シャトー・オー・ブリオン。そのワインの持つ個性に自分の料理を合わせるために、どうすればいいのか。
そうして下した決断は、ピエスモンテの世界観を、料理にも持ち込むことでした。
調和
「ピエスモンテは芸術作品だ。」
彼はそう思っていました。肉体的なことよりもむしろ、精神の悦びのためにそれはある。その建築的な美しさや構造にこそ、芸術性があり、そこに人の手によって精巧な装飾を施すことで、かえって自然と調和する。
シャトー・オー・ブリオンはワインのピエスモンテだ。ただ、決して派手ではない。むしろ落ち着いて、ひっそりとした、誰も訪れることがない古い寺院のような趣でありながら、ひとたび足を踏み入れれば絢爛たる情緒に驚かされる。
フランスの手品
1814年のウィーン会議で各国の要人に提供されたのは、カレームの考えた料理と、シャトー・オー・ブリオンでした。
外相タレーランが、カレームに要求していたのは、2つ。
「重複した料理のない、季節物の食材を使って、1年間のメニューを考えること」
「フランスの宝石ともいわれるシャトー・オー・ブリオンに合わせる素晴らしい料理を考えること」
カレームはその期待に見事、応えます。
精巧で、繊細、そして華やかなカレームの料理と、絢爛でありながら情緒的なシャトー・オー・ブリオン。
だれ一人、賞賛しない者はいませんでした。
会議は踊る
フランスにとって都合の良いことに、肝心の会議は、大国間の利害が対立してなかなか進みません。タレーランが主催した晩餐会は連日連夜、繰り返されます。それにも関わらず、同じ料理がひとつとして出てこないのを皆、不思議がりました。
あるオーストリアの将軍が言ったそうです。
「会議は踊る、されど進まず。フランスの手品に皆、興じたり。」
そうして会議が始まって一年後、フランスは、支配下にあった国は手放したものの、領土は分割されることなく、望み通りの結果がもたらされたのでした。
タレーランの戦略と外交手腕もさることながら、カレームの料理と、シャトー・オー・ブリオンが、フランスの危機を救ったのです。