借金生活10年でもめげない、仕事の心構え21選

訳あって26歳で250万の借金をして、30歳の頃には借金500万。会社員なので、年収は420万程度……。そんな借金状態が、10年。今も続いています。

ですが、かすかに光明が見えてきました。自慢できることではありません。ただ、めげずにコツコツと成功を目指して歩んできた自分の足跡は、誇れる。もう一度、言いますが、自慢できることではありません。

時には胃が痛くて、ときどき針で胸を刺されるような神経痛も伴って、ひどい下痢に悩まされもしたものの、きっと、そんな生活の中だからこそ、掴んできた真実があります。ご興味あれば読んでください。

借金生活10年で得た、仕事の心構え21選。

目次

理不尽さを喜べ

理不尽だな、と思うことは、生きていれば度たび、出くわします。いつ起こるかわからない地震など自然災害もそうです。ですがそれ以上に、人間関係において感じる理不尽さは、どう捉えるかで結果は大きく変わるように思います。

なぜ、私だけ・・・

理不尽に感じた時、もっともやってはいけないのは、不満や怒り、感情に任せてしまうことでしょう。それを人に愚痴ったり、批判したりするのは最悪です。なぜなら、成長が止まるから。非常に不毛ですし、その理不尽さは決して解消されるわけではありません。

その後もきっと、同じことがあれば、同じように反応するでしょう。私が勤めていたレストランは一流店でしたが、オーナーが厳しかったので長く続ける社員は稀でした。理不尽な思いは、数え切れぬほどしました。しかし今は、理不尽に感じることでも、自分が成長するために不可欠なことと思えます。

むしろ、その理不尽さを体験したお蔭で、人間力は高まったと感謝できたらいい。向かい風こそ、成長するチャンスです。

正しい忍耐

どんな苦しいことも、辛いことも、耐えられるのは、そこに目的があるからです。

目的なき忍耐は、精神を疲弊させる。ただ、苦しいから、辛いから、いま取り組んでいることをやめる、というのも、それはまたすこし違う。あくまで自分自身の誠実さに基づいていうと、人には与えられた使命があり、その機会は常に用意されていて、正しくクリアしていくと、自分が本当に望む方へ歩ませてくれる。私はそう感じています。

逆に、嘘ついて、間違ったことをすると、その負荷は倍になって返ってくる。その為に課される忍耐は、受けるより他、仕方ありません。逃げたらさらに大きくなって返ってくる。

ちょっと漠然としていますね。何がいいたいかというと、人は何かを決断した時、必ず、試練が訪れて、それに対して求められるのが忍耐ならば、たとえ10年でも耐えなければならないということです。私は、長い忍耐の時間、約12年を経て、ようやく人生の選択をし、行動する段階に入ったのだと感じるようになりました。それは様々な縁から、感じるのです。

さあ新しい一歩を踏み出そう。と。

ということは、これまでの積み重ねは、未来の為の大事な時間であったのだと思います。正しい忍耐であったのでしょうか。

どんな時代も、人の生き方は時代と共にあります。今の時代には、今の時代に選択するべき生き方があると思う。それは個人の特質と、時代との掛け算です。これからは、会社や一部の凝り固まった人間関係や、衰退していく固定観念、没落する社会に縛られることなく、自由に選択していくつもりです。責任は伴うし、リスクはありますが、その選択をしないことによる人生のつまらなさからは逃れたいと思っています。

未来を作るのは、国でも、社会でも、会社でも、親でも上司でも友人でもない。自分です。

自己犠牲の本質

学生の頃、枕カバーがびしょ濡れになるほど涙した小説がありました。

読み終えたのは午前4時すぎ。うっすらと陽が昇ろうとする6月の早朝でした。その日の授業は昼からの講義だけ。結末を繰り返し読んでは、涙しました。

その小説というのが、三浦綾子著『塩狩峠』

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『塩狩峠』は、1967年の冬、北海道塩狩峠であわや脱線事故で大惨事にいたるところを偶然乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄氏が捨て身で止めた実話がベースになっています。

小説の中での主人公、永野信夫は幼少のころ祖母と、父の3人暮らし。母は、キリスト教徒で、キリスト教を嫌った祖母から追いだされていました。やがて祖母が死ぬと、信夫は母と暮らすようになり、キリスト教に出会います。この小説はもともとキリスト教の教会誌での連載でしたので、宗教色がやや強いのです。

彼はやがて、親友の妹に特別な感情を抱きますが、彼女は身体の不自由な人で、信夫はあらゆる手をつくして回復させる援助をしてきました。そして、彼女へ結婚を申し込むのです。

事故は、その、結納の当日でした。

札幌に向かう列車が事故を起こします。塩狩峠の斜面を下る客車は止まらず脱輪して、このままカーブに入れば客車は転落し、乗客は助かりません。信夫は自分の命と引き換えに、客車を止めるのです。

自己犠牲の物語

『塩狩峠』に限りませんが、感動して涙を流す物語にはある共通の人生哲学があることに気づきました。それが自己犠牲です。私はキリスト教ではありませんが、こんな教えがあります。

わたしがあながたを愛したように、互いに愛しあいなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

ヨハネ福音書 15章12&13節

日本でも主君の為に命を捨てることが美徳とされた時代もありました。古来より、こうした自己犠牲の物語は、胸を打つものがあります。何の見返りもなく、その精神性が気高く、ピュアだからでしょうか。

現代の自己犠牲は欺瞞

現代における自己犠牲は、どこか捉え方が浅い気がします。夫の為に尽くす妻、上司のいう事を何でも聞く部下・・・。それを、自己犠牲という人もいる。たしかにそうかもしれないですが、見返りを求めている点で、ピュアではない。不思議なもので、自己犠牲と言葉にしない方が胸を打たれます。

信念のない仕事はしない

信念のない人は、何度も同じミスを重ねる傾向があります。そして、言い訳も多いです。

そう、それはかつての私自身のこと。

オーダーの取り間違い、清算間違い、釣り銭間違い、どれもお客様に迷惑をかけるミスです。これは小さいか大きいかではない。小さいからいいか、忙しかったから仕方ない、部下が記入ミスをしたから部下の責任だ、と思ったらもうダメ。

お客様に迷惑をかけた事実は、変わらない。そのお客様が自分たちの生活を成り立たせてくれているのです。その感謝を知らなかったり、言い訳することによって、自分に責任を求めず他に求めてしまったら、その報いは自分の未来に必ず受けることになる。

理由はそのような仕事の仕方は、気付かぬうちに人を失う仕方だからです。人とは、お客様であり、スタッフであり、協力者です。信念のある人が恐れているのは、今は見えない未来のリスク。そのリスクに備え、事前に対処するために持つのが信念であるといっても良いくらいだと私は思います。

品質VS効率

品質と効率の綱引きはどちらに軍配があがるでしょう?

品質と効率は、互いに綱引きをしているようなものです。品質を追求すれば、効率が悪くなり、効率を追求すれば、品質が悪くなる。でも、それも捉われた考えかもしれません。

品質とは

品質とはそもそも、何か。定義は簡単そうで難しい。

レストランでいえばお客様に提供する料理の質ですが、提供するのは何も、料理だけではありません。接客サービスもあれば、雰囲気や空間もある。トイレがいかにきれいに保たれているかというのも品質といえるかもしれません。直接、商品・サービスとして値段に含まれていなくても、お客様の目にするもの聞くもの触れるもの、すべてが品質と捉えることが出来ます。では、それを生み出すのは何か?

お客様を感動させたい、喜んでもらいたいという人の心でしょう。

効率とは

一方、効率とは、1時間かかっていたものを30分に短縮できないか。もっと楽に作業できないか。より早く仕上げるにはどんな計画、工程、手順、ツールがあるか。それらを考えることです。毎日ひとつ改善すれば、一年後は365個の改善をしたことになる。効率はコストに直結しています。10分作業を短縮できれば、それが毎日発生するものなら、一年間で3600分もの時間を節約したことになります。人件費に換算したら相当なもの。

効率とは、日々の創意工夫そのものです。

そう考えていくと、必ずしも、品質と効率とは対立するものでないことがわかります。

端と端をひっぱりあう、綱引きではありません。たとえば、10000円の料理を提供するとする。そこには材料費の他、人件費も、付加価値も含まれた価格ですが、その料理を作るために10時間かかっていたものが1時間に短縮できたらどうでしょう。逆に20時間まで増えてしまったらどうでしょう。

前者はもしかしたらお客様に安く提供することで喜んでもらったり、空いた時間で、より品質を高める仕事ができるかもしれない。後者は、あまりに手間がかかるので、値上げをする必要がでてくるかもしれない。それをしないと、赤字です。

品質か効率か、二者択一ではなく、目指すべきは両者兼ね備えたバランス感覚。もし天秤にかけなければならない判断に迫られたら、その時は品質を選択する。それが自社の方針です。

万物、わが師

今日、学んだ事は何だろうか?ふと、一日を振り返り、愕然とすることがあります。忙しさにかまけて、何も学んでいなかったのではないか、、、

そんな思いをしない為に、何事からも学ぶ姿勢を、保っていたいと思います。

学ぼうと思えば、車のハンドルからも学べる。コンビニの店員の名札からも学べる。落とした10円玉を追いかける小学生からも学べる。車のハンドルにも色々種類がありますが、ハンドルに求めるのは軽量感より、重量感です。握ったとき、指が自分の手のひらに巻き込まれるくらい細いと頼りない。でも、車によっては、そんなハンドルもあります。軽トラックなんか、意外とハンドルは軽い。

コンビニの店員の名札をまじまじと見たことがありますか?

私の経験上、どうも、変わった苗字の人が多い気がします。変わった苗字の人だからコンビニバイトが多いのか、それとも逆なのか。身近なところから考える力をつけようと、決意したら、そんなことばかり考えてしまう。

私はよほど馬鹿なのだと思います。

コンストラクタル理論

面白い話があります。

衛星写真でとった川の流れと、人の肺に流れる毛細血管のデザインは瓜二つだそうです。また、木の根っこが地中に伸びていく流れと、雷が地上に落ちる時のデザインもそっくりだという。

生物かそうでないか、物質か植物か、そういった垣根を超えて、万物の流れを持っているもののデザインにはそっくりになるのだそうです。理由は、スムーズに流れるようにデザインが変化する構造になっているから。

これをコンストラクタル理論と言います。川も、血管も、木も、雷も、エネルギーが留まることなく効率的に、スムーズに流れる為にデザインは変化していく。だから、最終的に似てくる。面白いですね。もしかすると、生産性の高い工場のラインは、川の流れに近いのかもしれません。人が話す会話にも、きっと、同じようなデザインがあるのでしょう。そしてまた、人が辿る運命も、もし図式化することができれば、この理論にあてはまるかもしれない。

万物のデザインがそうして決まっていくというのは、常に連鎖し循環する自然の法則であると感じます。失敗する理由は、つきつめていくと、そのデザインを壊した時に起こる。流れを分断したり、違う方向に無理やり曲げたり。

何か、深い示唆がある気がして、考え込んでしまいました。

知識、見識、胆識

学びを得る中にも、3つの段階があるといいます。

知識、見識、胆識。

知識は、情報として知ること。これは、現代の情報社会において、願えば誰もが簡単に手に入るものです。知識はないよりあった方がもちろん良いですが、ただ有しているだけでは、豚に真珠。使いこなせなくては意味がありません。

使いこなすには、どうするのか?

知識は、物事の本質を見通す思慮や判断力というものが加わって初めて意義あるものとなる。これが見識です。引用は定かではありませんが、その為には、日々鍛錬しかないと聞いた覚えがあります。たしかにそうだと、私も信ずるところがありました。

なぜなら知識は人から借りることができても、そうした本質を見抜く目や判断力は、実践の中でしか磨かれないことは明らかだからです。知識を有してるだけでは培われない能力です。それはおそらく、他人と深くかかわり、相手の問題を自分の問題として捉えないと、見えてこないものではないでしょうか。

少なくとも、私の場合はそう思います。本を読んでわかった気になりますが、目に見える成果として簡単にあがってきません。目に見える成果としてあがってきたときは、行動した時。

胆識とは、見識を得たうえで、決断力と実行力が加わったものを、そう呼ぶのだそうです。さまざまな抵抗や障害を断固として排除し実践していく力量のことを言っています。こうしてみると必要なのは、実戦の中で挑戦し、日々、鍛錬していくより他ありません。

必ず、影の裏には光がある

師匠の教えです。影の裏には必ず、光がある。

悪いこともあれば、良いこともある。光させば、影ができるように、それは自然の原理原則。だから、闇が長く続くなら、抜け出した時の成功はでかい。頑張れば頑張っただけ、見返りはある、ということは現実的には、賛同できる人は多くないかもしれません。けれども、それは望むものに対しての相対的な選択だと思います。

仕事を頑張れば、その質と量に対し相応の、お金がもらえるとは限らないのは、求めるものが経済と、それに伴う快楽を期待してるからということです。私は、自分の仕事によって得られた対価が、少ないと感じても不満を抱かないように極力、意識しています。求めないわけではありません。時には投資と捉え、時には、自分に足りないものを補う為のメッセージだと捉えます。

あ、この人、嫌いだなと思ったら、新しい考えを取り入れるチャンスかもしれません。人が嫌がるところに、チャンスはあると、成功者はよく言います。それも、光あるところ影あり、なんですね。ともすれば忘れてしまいがちなこの原則を、分かっておかないと、身に起こる事象に振り回されてしまう。

自然はバランスを整えようとする

ご存知ですか?

この30年で、日本の海水温は1度上昇しているそうです。すると、何が起こるか?

単純な話、北に済む魚は快適な水温を求め、より北に移動します。近年、北海道ではかつてあまり水揚げのなかった魚が多く水揚げされるようになっています。ブリやサバ、いわしなどです。逆に、鮭やイカは年々、減ってきています。

一概に海水温の上昇が原因とはいえず、他国の乱獲や、生態系の微妙な変化、様々な要因がありますが、その大きな一因であることはたしかです。同時に、魚の産卵期がどんどん遅くなっているという話も耳にしました。これは多いに海水温と関係があります。鮭でも、通常なら10月末には多くが産卵のため川へ遡上しますが、今は11月末まで回遊しています。

今年は、陸でも気温が高く、大きな台風が何度も上陸しましたが、海の環境も大きく変わってきているようです。

人間はどう生きるか?

哲学レベルの高尚な話ではなく、生存レベルの原始的な問題として、私たちはどこに住み、何を食べ、どう生きるか、考えなくてはいけない時期が来てると感じます。自然の変化は、どうしようもありません。その原因を科学者が突き止めたところで、海水温の上昇は止められるかというと、難しいでしょう。台風を反らせることができないのと同じように、自然の前で、人間が無力です。

ならば、人間が、変化しなくてはいけない、と思います。原因を調べてから、研究してから、では遅い。もう皆、体感レベルで分かってることなのに、その結果を待って、何ができるでしょうか。

自然は勝手に再生していく

この世界は、何一つとして、独立したものはなく、すべてが、何らかのかかわりを持って、連鎖と循環を繰り返しているようです。しかし、その連鎖と循環は、人の欲と、野望によって、時に崩れてしまうのもまた、現実です。昨今、魚の水揚げは減少の一途をたどってます。理由は、環境の変化と、乱獲。

たとえば、世界的不漁になっているイカは、なぜ減っているかというと、産卵しても子が育たないからだということが分かってきました。産卵場所である東シナ海の海水温が下がりすぎて、稚魚が生きていけないようなのです。

また、中国の漁船は日本の10倍の勢力で、文字通り、根こそぎ、魚をとっていきます。日本には刺し網漁といって、網目の大きさを調整することで、小さい魚は獲らないように工夫してますが、中国はそこまで持続性を考えていません。

我が国さえよければいい。アメリカ同様、自国ファーストの漁の仕方をしています。

でも、自然は元のバランスへ戻そうという力が働くようです。イカが減れば何が増えるか?イカが捕食する小魚です。実際、今年は、小魚が大漁だと聞く。この仕組みをしると、先が読めるようになる。

小魚が増えるとどうなるか?きっと、それを捕食する種が増えてくるはずです。そうすると、それを捕食する魚がまた回復傾向になる。イカも、今は減少していますが、すめいかは1年魚で、もともと子供を多く産む生き物なので、乱獲さえしなければ数年かけて回復するでしょう。

人に教えることは、深めること

しみじみ思ったことがあります。人は自分一人で完結していたら、本当に成長できない。たとえば人に料理を教えることにより、ひとりでは考えずにいたことも、深く考えられるようになります。

先だって、スパゲッティ・アマトリチャーナを人に教えていました。

炒める順番、玉ねぎのスライスの仕方など、アマトリチャーナを作るにあたっては独自の考えがあります。その中で、ふと、なぜそうするのだろうと、自身を持って根拠を説明できないことがありました。

ワインです。

アマトリチャーナの場合、ベーコンをいため、ニンニク、玉ねぎといためますが、トマトを入れる前に、ワインを入れ、ベーコンと玉ねぎに吸わせるのが定番です。でも、なぜ、ワインをいれるのか。。。食材の臭みを消し、香りと酸味を足すため、と一般にいわれますが、本当にそうでしょうか。

食材の臭みを緩和するのは、間違いありません。アルコール分が揮発する時に、匂いを嗅ぐと、魚介類であれば、ぶわっと香りも酸味も、加熱により、飛んでしまう成分が多くあります。

ベーコンの風味を消す必要がどこにあるのか・・・?

ワインの酸味は、たとえば搾りたてのレモンのように、刺激的な酸味ではありません。葡萄を発酵する過程で生まれる酸味、寝かせる中で時間と共にこなれてくる酸味があります。旨みを伴った、まろやかな酸味なのです。

この旨みがアマトリチャーナのソースを支える大事な役割となることは確かです。

トマトの酸味と同化しはしないのか・・・?

ワインに含まれる有機酸は肉質を柔らかくすることが科学的にも証明されています。ベーコンに吸わせることにより、ソースとの一体感を増す役割を買っているのは、間違いありません。

ベーコンを柔らかくする意味があるのか・・・?

実は、まだ、答えは出てないのです。ただひとついえることは、アマトリチャーナには、白ワインは欠かせないこと。これは、料理の背景を考えると理解できます。アマトリチャーナはマトリーチェというローマ近郊の町。ここは、白ワインの産地です。その土地の料理とワインというのは、理屈を超えて合うことが多い。アマトリチャーナも、そのひとつです。

仕事じゃなく、人生と思えば信念が芽生える

「仕事と思うな、人生と思え」

ご存知のかたも多いかもしれません。目標達成のコーチングにおいて、支持されている原田隆史氏の言葉です。

たしかにその通り。働き始めた時は、私もそう思って居ました。でも、いつしか、仕事は仕事でしかなくなっていった。それは、情熱の欠如であり、信念のなさであります。

生きるとは?

私のば場合、仕事、を突き詰めて考えていくと、生きるとは?という、哲学的な問いにたどり着きました。仕事は、事に仕える、と書く。「事」とはどういうことか?

それは、類似していながら逆の意味を持つ、<物事>について考えると、よくわかるような気がします。<物>がトマトであるならば、<事>は、誰がどこでどんな風にトマトを作っているのかということ。<物>がトマトソースならば、そこにどれほどの想いや努力、情熱が込められているかというのが<事>。

<事>、というのは、ストーリーです。そんなストーリーを作るのが、事に仕える、仕事だということと考えました。仕事はだから、どんな風に考え、どんな目的を持ち、どんな信念を持って生きているのか、問われる。

仕事と思うな、人生と思え、というのは、本質をついてます。そう思えた時に、仕事そのものに、ストーリーができる。人生という、自分の生きた証が表現されます。そうして初めて、仕事に自分の想いがはいる。

信念が芽生えます。そう思います。

人生の結果=能力×努力×誠実さ

稲森和夫氏は『考え方』という本の中で、人生の結果は、考え方×能力×熱意で決まると書いています。努力した数だけ幸福になれると。

能力がさほどなくても、嘆かず、恨まず、くさらず、妬まず、愚痴をこぼさず、誰にも負けない努力を重ねれば素晴らしい人生を送ることができるのです。

何に重きを置くか?

能力、というものは先天的な要素が強い。あとからどうこうできないことです。でも、考え方は正すことができる。私は中でも、誠実さがとても大事だと思うのです。誠実であろうとすることで、保たれる人との信頼関係は大きい。

そして、結果を大きく左右するのは、稲森氏の公式でいうと、努力、だと思います。努力とは、時間に比例する。能力がなければ、努力するしかないと思うのです。ですから、私の公式はこうです。

人生の結果=能力×努力×誠実さ

訊く、聴く、効く!

人の力を借りてこないと素晴らしい仕事は出来ません。雑談の中でもいい、「こういうことしようと思ってんだけど、どう思う?」と訊くだけで、ハッとするような答えが返ってくることがある。

私には幸い、全国各地に散らばる料理人との繋がりがあります。親しくさせてもらっている人でも100人近くはいるでしょうか。西洋料理のシェフに限りません。寿司職人、居酒屋の店長、和食、定食屋の人まで、様々です。先だって、千葉のフランス料理店のオーナーで、料履歴50年近いと思われるシェフと話す機会がありました。この方の情報や、話は、いつも参考になります。

「出張料理をやってこうと思うんですけど、そういう時、喜ばれる料理ってないですかねえ?」

雑談の際、訊いてみました。すると、いいのあるよ!と即答。

「超簡単、蟹クリームコロッケとかどう?」

「いいですね、どういう風に作るんですか?」

「多めのバターで薄くスライスした玉ねぎを炒めるでしょ。で、小麦粉ふるって、牛乳、そこへほぐした蟹を入れて冷ませば固まるから、あとはパン粉つけて揚げるの」

「お~いいですねえ」

「小麦粉が10なら、牛乳100くらい目安にしたらいいよ」

それからね~、とレシピをポンポン、教えてくれます。この方のすごいのは、訊けば無尽蔵に料理アイデアが出てくること。フランス料理のシェフでありながら、家庭で楽しめる簡単お手軽メニューから本格料理、和洋中ジャンルにとらわれない料理。実に様々な料理を、相手がわかるように、伝えてくれるんですね。実際、この蟹クリームコロッケ、カニカマで代用してもいいと言っていたので、早速それで作ってみたら、とても美味しかった!

レシピは隠さず教える

その方は、都内の有名ホテルで総料理長を務めていたそうです。オリジナルレシピは相当な数に上るといいます。

「普段から、テレビ見ても何しても、アイデア思いついたら形にしてみるんだよ」

と言います。おそらく試行錯誤の回数が、半端じゃないのでしょう。あれこれ試してみて、これだ!というのをレシピに残していると言っていました。その探求心も素晴らしいのですが、このシェフは、そうやって試行錯誤したレシピを、いとも簡単に人に教えるんですね。今度、レシピをまとめて送るよ、とまで言ってくれてます。その人の良さ、器の大きさ。私はその人間性が大好きです。

分からないことや聞きたいことは、知っている人にまず訊く。そして、言っていることを素直に聴く。この「聴く」という漢字には、耳も目も心も入っています。全身を使って、聴くという意味なんでしょう。

そうすると、人生に効いてくる。一人では解決が困難で、時間がかかることでも、人の知恵を借りるとすぐ解決することがたくさんあります。そうやって生産性は、自分の想像する以上に上がるのでしょう。

デジタル化するほど求められるアナログ的な人間力

私は思います。

IOT(インターネット・オブ・シングス)すべてのものがインターネットに繋がるようなデジタル時代に必要なのは、アナログ的な人間力だと。利用するのは人間です。たとえシステムに狂いがなくても、人為ミスがおこればすべて狂ってしまう。時々、そんなニュースも耳にします。

アナログの魅力

アナログの魅力は、人間特有の感覚が働くほど、光ります。

ソムリエはワインをテイスティングするとき、全感覚をグラスに注ぎこみます。その時、ふと、幼い頃に連れていってもらった動物園の記憶が蘇ることがある。それは、AIが完ぺきに分析して表現するよりも、情緒に富んでいます。

「このワインはどこか、幼い頃に連れていってもらった、動物園を思い出させるんです。あ、くさいわけじゃないんですよ。」

そんな会話をお客様と楽しめます。

アナログ的な人間力はなぜ必要か?

デジタル社会において、アナログ的な人間力がなぜ必要なのか?

私はこれまで、ただの懐古主義的な感情で、自分自身が思っているかもしれないという疑いがありましたが、それだけではないなと思うようになりました。

なぜなら、アナログ的な人間力は、デジタル社会において、個の輝きを持つからです。戦略的に最も重要に思っている独自性。それはアナログ的な人間力が光らせてくれる。デジタルでの事務的なやりとりの中に、人間的な気遣いがあると、ホッとします。ネットショッピングでも、自動返信ではなく、担当者の個人的なエピソード、ストーリー、感覚がさらっと書いてあると、とたんにそのショップを好きになってしまいます。

ピンチは最大のチャンス

窮地をどのように脱していくのか?

「ピンチは最大のチャンス」

とはよく聞く言葉ですが、実際にチャンスに変えてきた人はどれだけいるだろうか?日本マクドナルドの創業者、藤田田氏も、そう捉えていた一人です。

日本マクドナルドを創業する前、藤田商店という貿易会社をしていた頃の話。アメリカから、大量に注文が入ったことがありました。藤田氏はその受注に応えるべく、期日通りに仕上げてきましたが、取引直前になって、先方がキャンセルを申し出てきた。「クライアントの都合で急に使わなくなった」と。もし使えなくなれば、生産したコストはパーです。さらに先方は、それを見越して買い叩いてきたんですね。どうやら最初からそのつもりだったようなのです。

普通なら、ここで泣き寝入りです。ところが藤田田氏は違った。どうしたと思いますか?

なんと、アメリカ大統領に手紙を書き、直談判したらしい。お宅の国はこういうやり方をするのか?不名誉ではないか?

すると、大統領から返事がかえってきた。丁寧なお詫びの文面だったといいます。これが、のちに日本マクドナルドを創業する信頼関係のきっかけともなりました。

窮地に立たされたとき

窮地に立たされたとき、どう切り抜けるか?その場数が多いほど強く、たしかな選択をしていけると思います。スタッフを育てる時でも思うのです。もう一歩、踏み出せるかどうか、あと少し、頑張れるかどうかで、明暗がはっきり分かれる。一方は飛躍するが、一方は、停滞する。そのあと少しが、難しい。

マネージメントをとる人は、その背中をおすために、ある時は突き放し、ある時は、励まし続け、またある時は、小さな成功体験を積み重ねることからコツコツと始めさせる。

自分自身をマネージメントするときも、同じかもしれません。

相手の立場にひたすら立つ

得手不得手、ではないかもしれませんが、自分より上の人の考えを察することはできますが、5年以上若い世代の人を理解するのに苦手意識があります。それは、部下となり、顧客ともなる世代のことを知らないという致命的な欠陥になると、感じています。

もう30代半ば、上の世代ばかりを対象にしていては時代についていけなくなります。最低でも100年は持続できるレストランを作るのが野望です。何をするにも相手のことを知らなければ、うまくいかないでしょう。

相手の立場に立つこと。彼を知り己を知れば百戦してあやうからず。消費者理解、顧客視点。

いつも勝利する人達が共通して言っているのは、これです。でも、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの元マーケッター森岡毅氏は9割以上の人が出来ていないとインタビューで示唆していました。

何を知れば、相手のことがわかるのか?

相手を知る、ということはどういうことなのか。自分なりに定義しておくことが必要なのかもしれません。

私はソムリエとして目の前のお客様が何を望み、どうすれば期待以上のサービスができるのか、考えながら仕事していました。もともと、人を感動させるのが大好きなのです。自分が考えたことで、相手が泣いて喜んだりすることがあると、ほんとうに有り難い気持ちになりました。この喜びを得れるのは、レストランサービスの醍醐味だと思います。

その経験から考えると、たとえばワインひとつ、お客様に提供するにも、感動させるには好みを聞くだけでは足りません。味の好みよりもむしろ、お客様が今どんな気持ちで、何を期待してお店にきて、お店を出る頃にはどうなっていたいのか。それを知ることが大事でした。仕事で疲れて席についた人が望むこと、夫婦喧嘩したあとで仲直りのために来たご主人が望むこと、彼にフラれて落ち込んだ女性が望むこと、すべて違います。ただ、そのすべてに原因があって、結果がある。

相手の何を知れば目的を果たせるのか、と考えると、

いまどんな状況・気持ちで、それはなぜなのか、未来はどうなっていたいのか。

定義するとすれば、この3つを知ることなのかなと思います。

どうやって知れば、相手の立場に立てるのか?

じゃあどうやって若い世代のことを知ればいいのか。

ここは森岡氏にならって、徹底して現場主義でやってみようと思います。中高生のことを知るなら、中高生が集まる場所を覗いてみる、どんなゲームをしているのか、関心は何か、今はスマートフォンで、疑問に思ったことを気軽に質問しあうアプリもありますし、疑似体験することは比較的容易です。

人生最良の美味しい記憶をお作りするためにも、人を育てるためにも、きちんと稼いでいくためにも、それが大事なのではないかと考えています。

行き過ぎたルール

息苦しい世の中だな、と感じることはありませんか?

ルールは何の為にあるのか。それは、レストランであれば、働くスタッフが働きやすくなる為であったり、トラブルや諍いを避ける為であったり、はたまた、ミスを未然に防ぎ、チャンスを見つけ出す機会となるかもしれません。生まれも、年齢も、人生も違う人たちが集い、共に事を成すとき、必要なことであるでしょう。

でも、ルールの為のルールになっていることも、少なくない。

レストランで、オーダーミスがあったとします。間違って、お客様に違う料理を提供してしまった。その原因を探ると、スタッフそれぞれが、料理の伝え方がまちまちで、統一されておらず、厨房に複雑な形で伝わったためであることが分かった。

では、今後は、料理の略称を統一し、シンプルにしようと改善します。すると今度は、せっかく略すなら、オーダーを取る時に楽なように、記号を付けよう、となりました。スパゲッティ・アマトリチャーナなら「S・A」。カルボナーラは「K」。

しかし、これでは、新しく入ってきたスタッフが覚えるのに無駄に苦労するのでは?との意見が出た。厨房も、慣れた者ならわかるが、100もあるメニューをそうした独自の記号で覚えるのは、あまりにも大変だと。それなら、パスタの種類はアルファベットにして、他は、短縮した名前で統一しよう。ペンネ怒りん坊ソースは「P怒りん坊」とか。いやいや、それでは馴染みがないと、厨房のスタッフ。怒りん坊ソースは、アラビアータだから、「Pアラビ」の方が良い。

こうして、ルールはできていくのですが、これも良し悪しで、決まりごとが増えるほど、覚えておかなくてはならないことも増えます。ルールの為のルールはこうして増えていく。

でも、本来は、スタッフ全員が相手の立場に立ち、気を配る仕事が出来れば、ルールは必要最小限で済むはず。犯罪が多い国ほど、法律が多いと聞いたことがありますが、わかります。何のためのルールなのか、大事なのはルールそのものではなく、理由です。働き方改革も、会社の事情も個人の事情も何もかも一緒くたにして、型にはめようとするから、無理が生じてくるのではと思います。何のための働き方改革か?

一言でいえば、生産性を上げる為。人口が縮小し、高齢者がどんどん増える未曽有の社会運営の中で豊かに暮らしていくためには、それが不可欠なのです。先にルールを持ってくるから、やりにくくなる。もっとその前に、議論すべきことが山のようにあると思います。

正しさを貫く

たとえ、波乱がおきようとも、恨まれようとも、正しさを貫く勇気は持っておきたいものです。たとえば、先輩が不正をしている。先輩がしてるからいいや、といって同じことをすれば同類です。不正が犯罪ならば、同じ犯罪になるのと一緒だからです。

また、見てみぬふりをするのは、たちが悪い。

もし、その心の内で正しさを持ち合わせているのなら、自分を裏切ることになります。その後ろめたさは、徐々に自分自身をむしばんでいく。正しいことと、そうないことの区別がつかなくなってくるのです。なにより、見てみるふりをしてごまかすと、その本質から目をそらすのと一緒なので、解決しようにもできません。傍観者という立場は、見ようによってはとても卑怯です。

かといって、清廉潔白、正しさを押し付けるのもまた、違うのかもしれないと思うのです。先輩の不正にも、やむを得ない理由があったのかもしれない。決して、良くないことではあっても、完璧な人間なんて存在しません。正しさも行き過ぎると、害になる。良いか悪いか、二者択一で、自分の正義を相手に押し付けるのは違う。正しさの答えは、いつもひとつではない。

無用のように用はない

無用の用、という言葉をご存知でしょうか。

私は自分の身に起こること、経験したこと、すべて縁と捉え、悪いことも良いことも、起こるべくして起こったのだと考えるようにしています。そして、それはなぜそうなったのか?というところまで考え、本質を見ることができたら、より理想的な人生を送れるように思います。

無用の用とは、万物無駄なことは何一つとしてない、ということ。一見、意味のないように思えることでも、大きな視点で見ると、物事のバランスを図る上で必要なものである、と説いているのです。

これは、中国の哲学者、老子の言葉。(老子は複数の人物によって語り継がれていた思想だといわれることが多く、一人の人物を指すものではないそうです。)

私は「縁」というものを目に見えない必然だと思っていますから、どんな縁も自分にとって、必要ないことはありません。無用の用、という考えに深く共感はできるのです。ただし、出会うべくして出会ったものでも、それが自分自身が未熟ゆえ、怠惰ゆえ、レベルが低いゆえ、出会った縁もあります。それは、理想からすれば、出会わなくても良かった縁です。出会いたくないのならば、自分を高めておきなさいというメッセージなのでしょう。

でも無用の用に用はないのです。意味さえ分かればいい。できれば、無用の用にはできるだけ会いたくないものです。人生も無限にあるわけじゃないので、そんな暇はない。何を言いたいかと申しますと、無用の用の考えには非常に共感できるのですが、それに甘えてしまうと、成果があがりにくくなってしまうということです。効率ばかりを求めるのは違いますが、でも無用の用に出会わない方が、その分、早く目標に到達できる。

本の読み方で仕事ができるか分かる

先日、立ち読みをしていたら、面白いことが書いてありました。

本の読み方で仕事ができるかどうかが分かる、というのです。どういうことかと読んでみると、最初の1ページから生真面目に順番に読んでいく人は仕事の段取りが悪い人だという。

小山昇氏、という経営者の本に書いてました。経営する会社(株式会社武蔵野)は毎年増収増益。15年連続だったでしょうか、、、国内で唯一、経営品質賞を2度受賞しています。本は、『小山昇の超速仕事術』(PHP研究所)。その中で、仕事が早い、というのは、作業スピードももちろんあるが、本質はそこではなく、「何をやるか」と「何をやらないか」をはっきり決めているかどうか、だというのです。

本の読み方にもその考え方は現れるといいます。仕事の早い人、本質を掴んでいる人は、律儀に最初のページから1ページずつ読みやしない。

小山氏がどういう読み方をしているかというと、、、これが斬新でした、まず「あとがき」を読む。次に「まえがき」を読む。そして、章ごとに本から切り取り、必要なところだけ残してとっておき、あとは捨てるのだそうです。

私自身は、本は大切にしなさいと教えられてきたのもあって、本に文字を書き入れたり、線をひっぱたりするのさえ抵抗がありましたが、今は躊躇なく、書きこむようにはなっています。ただ、必要でないところは破って捨てるという発想はありませんでした。

言霊

泉鏡花という作家がいます。明治に活躍した作家で、この方の文章はほんとうに美しく、題材はいってしまえば「幽霊」ばっかり書いているのですが、その文章の品の良さからオカルトや、怪談話とはまったく違う、独自の世界を持っていました。

何が出典か忘れてしまいましたが、泉鏡花のエピソードで、文字の書かれたものは跨ぐことさえ忌み嫌っていたそうで、家人が新聞の端をすこし踏みつけようものなら顔を真っ赤にして怒ったといいます。

言葉には魂が宿る。本気でそう信じていたからです。

料理人にとっての包丁のように、言葉は作家にとって、もっとも大切な商売道具ですから、粗雑に扱わないのは当然かもしれません。仕事の成果、効率を求めれば、小山昇氏の読み方は参考になりますが、私はやはり、本は大切にしながら、インプットには最大効率を求めていきたいと思います。

売上の入る器

求めるな、まず与えなさい。といいます。

売上もそうでしょうか?私は実績をそれほど多く、積んでるわけではないのでえらそうにいえませんが、同様だと思っています。ただ、与える、というのは、この場合、投資になるでしょう。

では、何に投資をするか?

私の場合、人間の器を大きくすること。というのが、結論です。

全て、自分の器次第

いま、自分に起こっているすべてのことは、自分がやってきたことの過去の集積です。成果がでないのも、うまくいかないのも、自分の責任。器次第。だって、良いものを入れるだけの器があれば、入ってくるはずだからです。

それならば、どこを改善すべきかといえば、自分が望むモノをいれるために、器を用意したらいい。

求めるな、まず与えよ、です。

こういうことが、実感を伴って、ようやく分かってきた気がします。まだまだ、未熟ですが、意識的にその努力をし始めると、ちゃんと入り出してきました。

七転び八起き

祖父が大事にしていた絵をもらいました。

祖父のお兄さんが書いた達磨の絵。筆一本で書かれた達磨で、墨の濃淡だけで、威厳のある目や厳めしい髭、転んでも立ち上がる不屈の強さを表現しています。

「これはおれの大事な絵だから、お前に授ける」

実は、祖父もすこしぼけかかってきているのです。でもこの時は、何度も「良かった」といって、目を潤ませていました。御歳94才。

「おれも先が長くないことくらいわかってる」

その前に、大事な絵を見届けることができて良かった、というのです。

昔から、すごい力のある絵だと思っていました。その絵の前では、背筋が伸びる。嘘はつけない。これはたぶん、自分の甘さを戒め、苦難に出会っても乗り越える強さをくれるだろうと思いました。

大事に大事にします。

複雑の種を生まない

複雑さは、失敗を生むきっかけになります。例えば絶対に抑えなくてはいけない料理工程で10個あるとします。

ある人はもう1工程加えて、より美味しくしようと試みました。しかし、結果的に絶対に抑えなくてはいけない10工程のうち、1個を忘れてしまった。これはレストランに限らず、よくあることなのです。特に、チームで仕事している場合には。

より品質を高めようとその1工程を加える気持ちは、良いかもしれません。ただその場合、必要なのは、その情報の共有です。レストランでは、内にもライバルがいることが多々あります。人格の低い人は、良い発見をしても、周りに伝えません。自分だけのものにしようとする。それが、最も大事にしなくてはいけないお客さんに迷惑をかけることも知らずに。

1人で生きて、仕事しているならいいでしょう。しかし、人と関わり、2人以上のチームで仕事する以上、情報共有は欠かせない。社会人となって一番始めにおそわることは、報告・連絡・相談です。それが出来ないと仕事ははかどらず、失敗するからでしょう。レストランはその点、社会的リテラシーが低いと感じることが多々あります。

むしろ、物事を、複雑にすることで、差別化しようとする向きさえある。本来はそうではなく、改善を重ねシンプルにしていくことが本分です。勝手な判断、思い込み、確認不足、これがお客様に迷惑をかける。

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