尾崎豊の有名な楽曲で、『僕が僕であるために』という唄があります。私は昔から好きで、今でも無性に聴きたくなる時があります。サビのフレーズにこうあります。
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない。正しいものはなんなのか。それがこの胸にわかるまで。
人生は勝ち敗けじゃない、とはいいますが、それはやはり綺麗事でしょう。人生はつねに、戦い。多くの場合、敵は自分だと思います。他人じゃない。
誠実さとは、言ったことを成すこと
私は「勝ち癖」をつけるのが大事だと思っています。それが身についていると、勝たなければ気持ち悪くなる。勝ち続けなければならないと、思えてくる。
小さなことなのです。自分との約束を守ったり、言葉にしたことに責任を持ったり。勝ち続けるとは、自分自身に誠実であり続けられるか、ということと同義です。
どこで耳にしたのか、本で読んだのか、定かではありませんが、誠実さとは何か?という問いに、文字通り、言ったことを成すことですよ。と答えた人がいました。新撰組にまつわる人だったような……なるほどな、と感心しました。「誠」という字は、言ったことを成すと書く。
僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならないということです。
正しいものは何なのか?
この楽曲のすごさ、というか、尾崎豊の言葉の力なのか、私が漠然と感じていたものが、年を経るにしたがって、より身に迫って、具体的な事象となって目の前に現れてきました。
というのは「正しいものは何なのか?」という問いに対し、正しくないことをして身を滅ぼした人をごく間近に見て、自分自身もまた、大きな被害を被ってきたのです。こうしたことが、振り返れば、人生の随所で散見される。それに気付き、正しさを悟れと神様は仰っているのか、私はようやく、哲学レベルで、自分の使命が分かってきました。
正しく、未来を照らす男であれ
使命とは、限りなく個人として考えていることですが、それも突き詰めれば、公のものと表裏一体であるかもしれません。私は、構想するレストランの創業者としてどんな使命を負っているのか、と考えると、一本筋が通っていると思っています。
正しく、未来を照らす男であれ。
勝ち続けなきゃならないのは、決して、自分のためではありません。末代まで続く未来を照らすことをやろうとしてる。正しくなければ、強くなれず、強くなければ、勝てません。
勝つべからざるは己にある。
勝てない理由はすべて自分にあって、その根本は何かというと、正しさなのです。
僕が僕であるために、右ならえはしない
構想レストランでは、とにかく独自のもの、他のレストランでは味わえないオリジナルをいかに多く提供できるか、料理、サービス、器、仕組み、あらゆる独自ポイントを作り、お客さんに選ばれる理由を構築しないと100年続くレストランなんてできやしないだろうと当初から考えてきました。
これは当然、難しい。ついつい、成功例をならってしまったり、独自すぎることに勇気を持てなかったりする。
でも、人と違うことをすることで成功するというのは、歴史的な事実です。私は戦国時代から実例を学ぶことも多いのですが、誰もやらなかったことをやったことで、勝ち抜いてきた例は多くあります。
織田信長は戦の強みを貿易や交易により武器の調達と戦術の組み方で他を圧倒しました。豊臣秀吉は稀代の軍師の力を借りたのもありますが経済にものを言わせてできる限り血を流さない戦を経て天下を取った。家康は持続型経営の為に法を整備し、儒教を取り入れ人々の精神も安定させ、結果、260年もの長期政権の礎を作りました。
歴史的な勝者をはじめ、勝ち抜いてきた人の判断、思考を見ると、右ならえをしてこなこかった事が見て取れる。私が高尾にレストランを出した時、他が真似の出来ない事は何か、良いアイデアや発送も、真似されては意味がありません。簡単に真似もされず、強みとなるものを、作らないとならない。
自分のための夢は限界が早い
ある時を境に、私は、自分の夢が、生きる目的が、縁を感じている人、心から感謝している人に恩を返すことになっていることに気付きました。
恩師に言われたことがあります。
自分の為の夢は限界が早い。
でも、人の為の夢は、果てしない。
自分のためには意外と頑張れないそうです。人の為には、最後まで頑張れる。
以前は理解できませんでしたが、だんだんと理解できるようになってきました。目標に対して、いま自分がいる位置が遠すぎて、くじけそうになった時、縁を感じている人、心から感謝している人、恩を返したい人たちの顔を思い浮かべたら、やらなきゃ。と思う。
僕が僕であるために、正しさを追求していくと、自分の為ではなく、人のために努力ができるようになってきます。きっと、そうやって、人に背中を押してもらっているんですよね。
縁と恩と感謝。当社がもっとも大事にしている、コアです。
日々、感じ、思い、振り返ること
何のために私は開業するのか、そもそもそこに大義はあるのか?
毎日、思わなければ血肉にはならないと思います。私は特に、忘れっぽい人間です。何を忘れても、この世に生まれた使命は片時も忘れてはいけません。しかし、何のために?と問われたら、どう答えるか。
縁を持った人に、恩と感謝を返す為。
それで、すべてを言い含められるのかというとそうではない気がしてきました。社会から見た視点が欠けているからです。
たとえば100年持続するということは、持続できる大義がなくては、成らないでしょう。私個人の大義で持たせられるのは30年が限界だと思います。次の代を継ぐ人が何のためにレストランをやるのか?その理由を作っておかないと続かない。
それには前提として、人の幸福に影響を与え、地域に根付き、多くの人からなくてはならないレストランとして必要とされるべきです。そう考えると、まだ、すべてを言い含める言葉を私は創り出せていない気がしてきました。考えや想いは、ある。ただ、何のためにレストランをやるのかと聞かれて、深く納得してもらう言葉を端的に述べるにはまだ未熟です。
人生最高の美味しい記憶をお作りしたい。
というコンセプトは変わりはしないのですが、では何のために?というところです。
日々、思い、振り返り、積み重ねていけば、自然と湧き出てくるでしょうか。未だ、逡巡している未熟な今を、3年後の私はどう見るのか。答えは決まっているのか。
自由とは何か?
人間の自由とは、自分を縛っている見えない価値から開放させることだと教わりました。どんな境遇にあっても、誰もが、それをどうとらえるか、選択する権利がある。
ワインをこぼしてお客さんに怒られた、クリーニング代を請求された、聞けば超高級ブランドで、クリーニングだけで10万・・・、もし、そんなことがあったら落ち込みますよね。たしかに失敗だった、でも、それをどうとらえるか。
落ち込んで終わりか、謝って弁償して解決するか、それとも、どうすればクリーニング出さずに納得してもらえるか?策はないか?考えに考えるか。弁償したとしても、その損失を補って余りあるくらいお客さんにまた来てもらう為に、どうすれば良いか。
身に起こることに対する反応はすべて、選択できるのです。その自由がある。でも現実は、それを忘れてしまうことも多い。
勇気と、正義と、改善の繰り返し
あらゆることから自由になりたい。その為に必要な事が最近、わかってきました。自分が信じた正しさを貫く勇気を持ち、間違ってたなら訂正し、改善する。
誰にいわれても、反るか乗るか、自分の信念に照らし合わせ、一時的には不利益があっても、信念に沿わないなら、勇気を出して振り払う。常に、選択する自由は、自分自身の中にあるんだってことを忘れずに。
だから、自由になるには、強さも、修業も必要なんですね。
最後は勝つために、最悪に備える
いま世界は、ポピュリズムに走っています。ポピュリズムは、大衆の意志、であると同時に、自分たちだけよければいいという、自己中心的な考え方です。アメリカは世界の先頭をきって、その方向へ向かっています。
その意味は、と考えると、恐ろしくなります。アメリカだけ良ければいい、他の国はどうなろうが知ったこっちゃない。以前、アメリカは世界の警察官であり、環境保護にも積極的でした。いまは、真逆です。
理由の一つは、アメリカは武器を売ることで、経済が安定する国であるから。平和だと儲からない。ということでしょうか。北朝鮮への対応も別の意図があるのでは?と考えてしまいます。
食に携わる身として気になること
関連して、気になるのは、資源の枯渇問題です。
今年は全国ニュースでも、魚の水揚げが減少しているニュースを度たび、目にしました。イカが揚がらない、さんまが来ない、鮭が減っていくらが大高騰している。。。地球がまかなえる人口は、もう限界を迎えている、という人もいます。それも頷けるほどの水産環境の変化です。世界人口は70億人を超え、80億人になろうとしている。そうなると、食糧危機も、他人事ではない。レストランどころではありません。
ポピュリズムの流行は、そうした状況になったときに、自分たちだけを救われたいが為だと思えてるのです。実際、アメリカはそうでしょう。では私たちは、どうすればいいのか?
もし、高尾で開業したら、やっておきたいことがあります。それは、畑を持つこと。川を敷地内にひっぱってくるか、池を作り、魚(アマゴやニジマス)を養殖すること。水を確保すること。それから仕事は、国内だけでなく、海外にも通用するスキルを身につけておくこと。未来は、最悪に備えておかないと、危ないですよね。
いまある当たり前の幸せは、このままずっと続くと限らない。高尾で開業するのは、資源が豊かだからでもあります。最悪の事態を望みませんが、想像しておかないと取り返しがつかなくなると思っています。