世界の頂点に君臨する、フランス・ボルドーの5大シャトーの一つ。シャトー・ムートン・ロートシルト。
長い歴史の中で、唯一の、その格付けを覆した革新的な造り手の物語をご紹介します。題して、『シャトー・ムートン・ロートシルト|飽くなき挑戦の物語』。
5大シャトーの簡単な概略は『5大シャトーの話|一流であることの証明』をご覧ください。
唯一、格付けを覆した革新的な作り手の物語
さかのぼることパリ万博の2年前、1853年。
ナサニエル・ロートシルト男爵が、「ムートン」を購入します。彼は英国出身。ナポレオン3世同様、ボルドーワインが大好きでした。
誰よりも美味しいワインを作ろう!そう意気込んで、この地にやってきたのです。
ところが1855年。
例のパリ万博において、「ムートン」は2級に格付けされてしまいます。
彼は激怒しました。
「私のワインが2級だって! そんなことあるはずがない!」
それはたしかに根拠なき自信ではありませんでした。が、1級に格付けされたワインよりも、市場価値は低かった・・・。
「ならば、私のワインを造り続けようじゃないか」
イギリス育ちの高貴な紳士、ナサニエル男爵はこうして、良質のワインを作り続けたのです。
挑戦の火種
さて、ナサニエル男爵なき後、しばらく「ムートン」に情熱的な関心を持つ人物が現れませんでしたが、1922年、ついに彼の意志は引き継がれることになります。ナサニエル男爵のひ孫にあたる、フィリップ・ド・ロートシルト男爵。格付け制度を覆した、その人です。
そのとき彼はまだ、弱冠21歳。若くて、美しく、聡明で、夢と希望に満ちていました。
これまで、レーサーとしてモナコグランプリに出たり、ヨットでオリンピックにも出場し、映画制作にも関わったりしながら青春時代を華々しく謳歌してきましたが、彼は何より、その風光明媚な土地柄や、美しい邸宅にとことん魅せられていました。
一面に広がるぶどう畑を見渡し、風に吹かれ、なびいた髪に手をやり、目を細めながら(かどうかはわかりませんが)、胸に迫りくる熱い思いに身を任せていたに違いありません。
彼は、決意しました。
「ムートンを第1級のものにしよう」
ここに、ナサニエル男爵から引き継がれた第1級への挑戦の火種は根付いたのでした。
ところが、そう簡単に上手くはいきません。それまで順風満帆だったフィリップ男爵の人生において、最も大きな悲劇が訪れるのです。
新しい風
フィリップ男爵は、ワインの品質を高めるため、次々と斬新なアイデアでワイン造りに励みます。
まず、畑に入りました。ぶどうを自ら作り、収穫し、発酵、醸造、販売まで、すべての作業を自分の醸造所で行いました。今でこそ、それは一般的なのですが、当時は革新的なことです。
ネゴシアンというワイン販売業者がいて、彼らが瓶詰、ラベル貼り、販売までをすべて行っていました。完成した製品を手渡すだけのシャトー(醸造所)は、ボトルの外観にまで関心を持っていなかったのです。
1924年、彼はこの改革を記念して、当時の人気ポスター作家であった、ジャン・カルリュにラベルを依頼します。
きちんと、自らの身元も記し、シャトーで瓶詰をしたことを保証しました。これが、いまの高品質ワインに至る「シャトー元詰」のはじまりです。
悲劇
彼には、自信がありました。
1級シャトーに負けないワイン作りはもちろん、品質管理、販売も徹底しています。誰も、ここまでこだわって作っている者はいない。それだけのことをしていました。
それからも、彼の改革はどんどん進んでいきますが、一方で、ナチズムの台頭、第二次世界大戦と、ヨーロッパ全体が暗雲に覆われ始めます。
そして、時は1945年。
戦争は連合国の勝利に終わりますが、その傷跡は痛ましいものでした。
ドイツ軍の占領下に置かれていたため、国土は疲弊し、人々はやりきれない気持ちを抱えたままです。
フィリップ男爵自身も深い心の傷を負っていました。
大戦中、シャトーは没収され、ロンドンに命からがら逃げたものの、彼の奥さんリリーはゲシュタポに捕えられ、この年、強制収容所で亡くなってしまったのでした。
勝利
彼は失意の底で、いまの自分に何ができるだろうかと考えました。
折しもそれは、ぶどうの花が咲く季節。
これからぶどうは実を結び、どんどん色づいてくる。皆でそれを収穫して、ワインを作る。瓶詰めするのはもっと先だが、最初の一杯は、いつもリリーや近しい人たちと一緒に飲みました。
「10年後が楽しみだね。」
そういった彼の言葉の先には、いつもリリーがいるはずでした。彼の脳裏にふと、故郷イギリスの首相、チャーチルが思い浮かびます。
狂気の独裁者ヒトラーと戦い、強いリーダーシップで、イギリスを勝利に導いた英雄。
ナチスの猛攻撃が加えられたとき、建物もなにも破壊された焼け跡に立って首相は悠然と葉巻をふかし、Vサインを掲げたそうです。
「我々はかならず勝利する。どんなに辛くても勝ち抜く」
その姿はなんとも勇ましく、潔く、人々に自信と希望を与え、闘志を奮い起させたのです。
男爵はその迷いのないストイックな力強さを、ラベルに表現しようと思い、まだ無名ではあったが若き才能にあふれた芸術家フィリップ・ジュリアンに、製作を依頼します。
そうして出来上がったラベルは、実をつけたぶどうの蔓に囲まれ、中央に月桂樹の輪とVの文字、さらに「1945 ANNEE DE LA VICTOIRE」(1945年 勝利の年)と書かれた、力強く、生命感あふれる作品になりました。
我はムートンなり
1945年以降、フィリップ男爵は、毎年アーティストにラベルを依頼することを決めます。
奥さんを失った彼は、以前にまして、ワイン造りに打ち込むようになりました。そうしないことには、哀しくてやりきれない部分があったのでしょう。
彼はラベルにこう記しました。
「われ1級にあらねど、2級の名には甘んじられぬ、われはムートンなり」
錚々たるアーティストの協力
そんな彼の思いや努力は、市場がいちばん理解していました。
ムートンが1級でないのはおかしい、ラトゥールもたしかに凄いし、ラフィットのスケールは宇宙なみだ、マルゴーのエレガンスには敬服するし、オー・ブリオンのエキゾチズムにはぞくぞくする。
でもムートンの芸術性はすべてを超越しているじゃないか。
そんな声が上がり始めます。
ムートンのラベルを飾る一流のアーティストたちも、協力を惜しみませんでした。
1947年には、ジャン・コクトー。
1958年にサルバドール・ダリ。
1969年にホアン・ミロ。
1970年には、後ろから首をのばしてキスをする絵が有名な、マルク・シャガールも書いています。
ライバルも認めた実力
他の1級シャトーも、その実力を認めないわけにいかなくなりました。
シャトー(醸造所)元詰をはじめとして、ぶどう作り、ワイン醸造、販売、その他の事業において、その向上のために先陣を切っていたのは他ならぬムートンだったのです。
フィリップ男爵は、自ら行ってきた改革を特別に隠すこともしませんでしたので、周囲はムートンを見て、それに従ったり、改善したりしていました。
1級シャトーでさえ、その例外ではありません。
1970年代初頭、1級シャトーのオーナーたちが集まり、4者会談が行われます。
議題は、シャトー・ムートン・ロートシルトの一級昇格について。
当時のラフィットのオーナー、エリー・ロートシルト男爵は、フィリップ男爵のことを快く思っていませんでした。もとを辿れば同じ血筋。違うのは、エリー男爵はフランス系、フィリップ男爵はイギリス系です。エリー男爵は、フィリップ男爵よりもひとまわり下でした。
負けず嫌いで、ワイン作りにも熱心に取り組み、ラフィットの方が血筋も品格も実力も上だと信じていた。フィリップ男爵のやり方はご機嫌とりで、品がない。ラベルの華やかさに皆だまされているのだと、ムートンの躍進を懐疑的に見ていました。
だからその会談の際、すぐには首をたてに振りませんでしたが、本当はライバルの実力を誰よりも理解していたのは、彼自身なのです。
どうしたらムートンのような芸術性を表現できるのか、思い悩み眠れない夜を過ごしたこともあったでしょう。同じロートシルト家ということで、1級という立場にありながらずい分、比較されもしました。
われはムートンなり、か・・・。
飽くなき挑戦
周囲の賞賛の声をしずかに聞きながら、賛同の意を何度目かに問われたとき、彼はついに受け入れたのでした。
こうして、時の農業大臣、のちに大統領にもなるジャック・シラクが、ムートンを1級に引き上げる行政命令に署名します。1973年、パブロ・ピカソ最後の作品がラベルを飾った年でした。
フィリップ・ド・ロートシルト男爵はラベルに記しました。
「われ1級となりぬ、かつては2級なりき、されどムートンは不変なり」
格付けを巡る長い挑戦に、ようやく決着がつきました。
しかし彼にとって、それは終わりではありません。ピカソは言いました。
「明日描く絵が一番すばらしい」
その時すでに71歳になっていたフィリップ男爵は、格付けなど、どうでもよくなっていたのではないでしょうか。
1級でも2級でも、ムートンはムートンである。1級になることがほんとうの目的ではなく、ムートンがムートンであり続けること自体が彼の夢だったと思います。
そのためには、勝ち続けなければならなかった。
夢の続き
1987年、フィリップ・ド・ロートシルト男爵は85年の生涯を終えます。
その年のラベルには、ムートンのモチーフである羊の角らしきデザインをバックに、彼の肖像画が描かれています。そして、
「ムートンの改革者たる父、フィリップ・ド・ロートシルト男爵へ。
あなたの65回目にして最後の収穫であった、この年のワインを捧げます。」
と、彼亡き後を引き継ぐフィリピーヌ・ロートシルトのメッセージが綴られています。
彼女は、強制収容所で亡くなった妻、リリーとの間にできたフィリップ男爵の娘。
1945年、リリーを失い、失意のどん底にいた中、力強いラベルで平和と、人々の生きる喜びを取り戻そうと、哀しみに立ち向かった父を、彼女は尊敬していました。
ずっと、見てきたのです。彼の飽くなき挑戦を続けた人生を、その苦悩を、その努力を、彼女は知っていました。
彼女はその最後にこう付け加えます。
Mouton ne chenge
ムートンは不変なり。